ドーバーを渡る
皇紀2586年5月15日 ドーバー海峡
有坂夫妻はドイツを離れるとグスタフ・クルップに宣言した通りにドーバーを渡り大英帝国へ向かっている。目的は中島飛行機と協力しているブリストル社の視察である。
「旦那様、クルップさんに大見得切っていらしたけれど、イギリスを誘って大陸を分割するつもりはないのでしょう?」
結奈は総一郎の心中を見透かしたように言う。
彼女は総一郎が大風呂敷を広げたと感じていて、真意はそこになく、あくまでグスタフ・クルップという元外交官、大砲王、鉄道王のそれぞれの立場で揺さぶりをかけ、日本と組むことが彼にとって利益だと錯覚させることだと気付いていた。
「毒饅頭もそのためのハッタリやハリボテでしょう? そもそも、満鉄の島さんたちを動かして史実の機関車よりも野心的なものを造ってしまったのですから、今更ドイツに期待することなどないのではなくて?」
クルップには大英帝国を誘って支那新秩序を作ると言ったが、実際にはあくまでも理想論としての話である。いかに効率的支那大陸を経営しようかと考えれば誰もが辿り着く理屈である。もっとも、クルップに語った通り、現時点でイギリスに提案しても乗ってくる可能性は十分にあるとは考えていたが。
「私の心中、腹の内を見透かすのは結奈だけであって欲しいね」
総一郎はそう言うと鼻の頭を掻いて苦笑いをする。
「それに蒸気機関車ではなく、本当はディーゼル機関車や電気機関車が本命でしょう? あの満鉄の機関車も実際はただのつなぎのつもりでいらっしゃるのはわかります」
「まぁ、そうなんだが……この時代の電気機関車は非常に繊細でね、故障も多いんだ。軍縮条約の時に外務省がイギリスから譲歩を引き出すために独断で電気機関車の購入を推し進めたけれど、とてもじゃないが、あんな欠陥は役に立たない……より正確に言うと欠陥から学ぶことは出来たのだから全くの無駄ではないのだけれど……まぁ、そういうわけで手頃なものがまだないんだ。そもそも製造したイギリスがそんなに電化が進んでいるわけじゃないからね」
結奈は不思議そうな表情をして尋ねる。
「では、どうしてクルップさんに電気機関車の話をなさらなかったのですか?」
「あぁ、それはだな……ドイツはイギリスよりも電化が遅れているし、彼らは電化しなくても石炭が豊富にあるから無理して電化を進める必要がないんだ」
総一郎は苦しい内情を吐露する。
欲しいものはあっても、結局は成熟していないことで史実とそう違わない現状であって無理して買う必要もないと感じていたが、エネルギー効率から電化を進めたいとは思っている。
当時、日本においても陸軍の反対で鉄道の電化は進んでおらず、帝都東京を中心に西は国府津、北は宇都宮付近までしか電化は行われていなかった。
当然、長距離列車は全て客車列車であり、電気機関車牽引であっても故障が頻発するため蒸気機関車が牽引するということも日常茶飯事。電車運転も山手線、中央本線、横須賀線などに限られている。
陸軍が反対した理由は変電所を攻撃されたら列車運行が不可能になるというものだった。そして、現代でも変電所がある場所を見ると山の影や隠蔽されたような場所にあることが多いのもそういう理由が元である。
もっとも、陸軍が心配したような事態はそう発生していない。帝都大空襲や大阪大空襲があった次の朝も鉄道は、電車は普通に運転されていたからだ。
「結局、ないものねだりはしても仕方がないということね?」
「まぁ、そういうことだよ。でも、クルップには極東で暴れてもらう必要があったのも確かだから、全部が全部嘘やハッタリでもないんだ。彼らの持つ技術は我が国に大きく利するしね」
仮にクルップの協力を得ることが出来ずとも、総一郎としては許容範囲ではあった。
確かに戦車・火砲の開発や製造にはクルップの協力があるのとないのでは大きな違いがある。しかし、詳細なことは兎も角、転生者である総一郎にはある程度の知識があり、同時に概念を知っている。
陸軍技術本部の原乙未生に適宜情報を伝えれば……例によってハッスルしてやり過ぎる可能性があるが……彼ならば望むような結果は得られるだろうと総一郎は考えていた。
「ダイムラー・ベンツの統合にも介入出来たし、会ってはいないけれどモルヒネ中毒さんに定職を与えてドイツ政界、産業界に食い込ませることも出来たわけだ。これで、仮にナチ党が崩れて、帝政復古となった場合でもいずれにしてもドイツはある程度コントロール出来るだろうし、いざ戦時になって無様な負け戦をすることはないと思うよ」
「そううまくいくかしらね?」
結奈は心配そうに言う。だが、そこで考え直す。
「ドイツがどう転ぼうと日本がどうにか出来るわけではないのだし、利用出来るだけ利用するというだけなら、旦那様の考える通りでもそれほど心配はなさそうね」




