温泉という罠<1>
皇紀2586年5月6日 ドイツ=ワイマール共和国 バーデン・バーデン
有坂結奈は夫である有坂総一郎におねだりをすることで彼に休暇を取らせることに成功し、同時に自身が望んでいた余暇の時間を満喫することに成功した。
「結奈、すまなかった。配慮が足りなかったね……。じゃあ、まずは温泉でも行こうか」
急なことであったのではあるが、総一郎の提案に結奈は首を縦に振り嬉しそうな表情になった。まるでお預けを食らっていた犬にフリスビーを見せた時の様な感じだ。尻尾がちぎれそうなほど振っているとでも言えばよいだろうか……そういう状態だ。
総一郎は東條英機大佐からの電報を旅行鞄に仕舞うとその日のうちに結奈を連れてドイツ南部の温泉保養地であるバーデン・バーデンへと向かった。
だが、彼らにとって想定外の事態がそこには待っていたのだ。しかし、それを知るのは現地に到着し、いざ温泉に入ろうとしたときに気付くのである。
「ここが史実で東條さんたちが密約を結んだ場所なんだね」
列車から降り立った総一郎は呟くと、結奈から荷物を受け取り彼女が列車のステップから降りるのを手伝う。
「なんでもよいけれど、なんでこの時代の列車とホームはこんなに段差があるの? 降りにくくて仕方がないわ」
結奈は不満そうに文句を一言。
なにもこれはドイツだけではない。日本であっても80年代まではこれが標準だったのだ。現代みたいに車両の床面とホームが同じ高さになったのはつい最近のことなのだ。客車列車が標準であるこの時代はこれが普通なのだ。むしろ、ホームがあるだけマシであるかもしれない。場所によってはホームがなくて直接地面に降りる必要がある駅すらあるのだから。
「どこに行ってもこの時代はこんなものさ。でも、コンパートメントでのんびり列車の旅なんて現代では出来ないのだから、こういうのも悪くないと思わないか?」
「……その為だけに列車の旅をしたのかしら?」
結奈は疑いの目で総一郎を見る。
結奈の視線に耐えられなくなった総一郎はわざとらしく駅舎の方を見る。
「あの駅舎もいい味出してるよな。コンクリート打ちっぱなしの現代的な駅よりこういう駅の方がいいよね。きっと駅舎の中で美味しいものを売ってるぞ! さぁ、行こう!」
「全く……。待って、旦那様! 美味しそうなものがあったら買ってくださいな!」
仕方がないなという表情で溜息を吐いてから、気分を入れ替えた結奈は自分も食べると宣言して彼を追う。




