鉄道行政
皇紀2585年12月25日 帝都東京
鉄道省の列島改造計画は工事用機械の投入によって各地で驚異的と称される速度で進行していた。
土木機械の投入による作業効率の向上とダンプトラックの運用開始による現代的な工事が可能となったことは、今までの手作業、人海戦術による敷設工事、路盤建設を一変させ、数年掛かると言われた東海道本線の改軌の目処が立ったのである。
同時に弾丸列車構想も進展があった。品川から分岐して御殿場越えを目指す弾丸列車路線の工事は、当初から大規模に土木機械、トラックの運用を計算され、同時に建設現場周辺にいくつものコンクリートプラントが設置され、管理出荷され、コンクリート打設も時間管理による品質の一定化が行われていた。
有坂総一郎、島安次郎らが帝国議会において弾丸列車構想をぶち上げてから2年。工事が始まってから1年半。鉄道省予算を注ぎ込み、同時に各種補正予算、陸軍からの貸付、財界からの出資というあらゆる方面から資金を調達し始めた事業はやっと目に見える形となってきたのである。
だが、鉄道省は事業だけに注力していたわけではなかった。
組織そのものの改変を進め、26年1月1日から省内組織を大きく様変わりさせることとなっている。
従来の6鉄道局(札幌・仙台・東京・名古屋・神戸・門司)を細分化し、15鉄道管理局(北海道・青森・仙台・東京・新潟・静岡・長野・名古屋・大阪・広島・米子・門司・鹿児島・四国・樺太)に再編すると同時に樺太庁鉄道の鉄道省への移管を行う。
これとは別に主要幹線の特別急行・急行・仮称弾丸列車の取り扱いを行う優等列車管理局を設置、各鉄道管理局は各線区の管理と近郊列車・通勤列車・準急列車などを取り扱うこととした。これは将来の上下分離を見越した管理区分けである。
これによって在来線の運用の自主性を鉄道管理局に任せ、弾丸列車開通後の在来線の収益安定と余裕の出来た線路運営の自主的運営を図ることが出来ると鉄道省顧問となった総一郎は企んでいたのである。無論、地方の実態に合わせたフレキシブルな運用を期待してのことである。
史実における分割民営化による失敗と分割各社の身勝手な経営を苦々しく思っていた総一郎にとって、国有鉄道の一体的運用は絶対に譲れないものであった。だが、地方の実態を無視しての運用は結果として地方の衰退に直結するだけにこれにも配慮をせざるを得ないのだ。
総一郎にとって幸いであったのは、モータリゼーションが進行していないことで地方、都市部問わず、移動の主要手段が鉄道であるということだ。それだけに鉄道を基本とした地方活性化が可能ということである。鉄道接続を基本とした道路行政、乗合自動車運用を行うことこそ鉄道オタクでもある総一郎にとって至上命題ともいえた。
鉄道大臣仙谷貢は総一郎の提言を受け入れ、各鉄道管理局へ送り込む局長には徹底した有坂流鉄道未来図を理解させ、ある意味での派閥を作った上で送り出したのである。
後に有坂総一郎による鉄道省の私物化と批判がマスコミによってなされる原因である。




