島安次郎
皇紀2582年1月6日 関東州 大連
この日、有坂総一郎は満州大連に居た。鉄道省を辞職し渡満した鉄道技師島安次郎に会うことが目的だ。
大連は大日本帝国が満州を経営するための行政、経済、軍事の拠点であり、南満州鉄道、通称満鉄の本社もここにある。
総一郎が島を訪ねた理由は内地における鉄道の標準軌への改軌を再び促すための下地を作るためだ。
原敬内閣が成立する以前、鉄道院及び後進の鉄道省は狭軌から標準機への改軌を何度も狙っていた。その理由は列車の高速化による輸送力の強化であった。
文明開化後、日清戦争、日露戦争、欧州大戦と日本は国力を増していき、それに従い、鉄道網、鉄道輸送は発展していき、近い将来需要に対して輸送能力が飽和すると見ていた鉄道関係者は従来の狭軌から標準軌へ改軌し輸送力を増強しようと考えていた。
だが、政治は改軌よりも新線建設を優先する思考を持つものが多く、原敬内閣の成立と新線建設派の鉄道大臣就任によって改軌派が左遷放逐されてしまったのだ。
しかし、史実から考えれば自明であるが、この時期にもし改軌が行われていたならば、戦前の日本の物流は遥かに進んでいたであろうし、同時にインフラの整備によって地方の発展を促せたことは間違いないだろう。
主要幹線の通っている地域に産業が偏っているのはインフラの未整備によるものであり、戦時においては都市部への攻撃があれば生産力の喪失という事態を招く。また、災害に弱くなる。これは戦中、特に昭和18年、19年、20年、そして戦後の21年ごろまでに頻発した地震災害が生産力を奪った実例からも明らかである。
それらの結果から是が非でも内地の改軌を為さねばならないと総一郎は考えていたのだ。
また、総一郎が今ならまだ出来ると確信を得ていたのには理由があった。
この時期に量産されている鉄道省の車両の多くは島らが改軌を視野に入れて開発したものが多かったことから改軌へのコストがもっとも少なく抑えられ、しかも、主導した彼らには明確な計画があり、それに従って改軌を行えば数年で完了するプロジェクトであるからだ。
総一郎は威風堂々とした満鉄本社の前にして両頬を叩き気合を入れた。
――よし!
――彼には数年早いが、パシナを作ってもらい、それをもって改軌の旗印にしてもらう。
受付で面会を願うとすぐに通された。
「はじめまして。御高名はかねがね伺っております。私、内地で新興の重工業メーカーを率いております有坂総一郎と申します」
「有坂さん……ですか……御社では何を作られておりますか?」
「今は主に工作機械を……今後は出来れば標準軌の鉄道車両をと……考えております」
島は標準軌という言葉に反応した。
「標準軌……しかし、内地では新線建設を原内閣、政友会は主導しているはず……満州や朝鮮での納品を考えておられるのですかな?」
「いえ、内地での納入を考えておりまして……しかし、内地の目を覚ますのには……あなたの力添えがどうしても必要でして……如何でしょう、満鉄で時速130kmで運転出来る機関車を開発し、それを持って優位性を証明するという提案をさせていただきたい」
「130km!? ……満鉄の主力であるパシシでも十分な性能であると思うが……それでは駄目なのですかな?」
「確かにパシシは内地の18900形よりもはるかに高性能ですが……今は良くても将来的には不足します……数年後には欧州の機関車は150kmを優に超える速度で運転されましょう……それを考えれば……」
「うぅむ……だが、それほどの性能を有する機関車を満鉄で造ったとしても……だ……持て余すのではなかろうか?」
島は考え込み黙ってしまった。
彼の様子を見るに乗り気ではあったが、もう一押しというところであった。
「今後、満州は……更なる需要が舞い込む新天地となるのは必定。撫順の石炭、鞍山の鉄、そして……いずれ石油も見つかりましょう……さすれば……」
「石油!? それは真か?」
「いずれ見つかるでしょう。ただし、今見つけてもいらぬ騒動になりますゆえ、もう少し時を待つ必要がありますが……」
「その話が真であるならば……満州は日本にとってより重要になる……わかった。この話、すぐには進まぬが、目標速度150kmの機関車を開発する方向で進めよう……」
「度肝を抜く機関車を期待しております……そして、これからは流線形の時代……流麗な姿の新型機関車……そうですな……こんな感じのものを……」
そう言ってから総一郎はメモ帳を破ってさらっとパシナとパシハの絵を描いて見せた。
「ほぅ、これは美しい。そのデザインに沿ったものを作りましょうぞ」
「期待しております……満鉄が音頭を取って動けば、帝都の後藤新平市長もまた何かしら動かれると思います……私も働き掛けをしますゆえ、何卒……」
「お任せください。久々にやる気が出てきました」
島は総一郎に握手を求めた。そして土産を持たせて外まで見送ったのであった。