国民党政変
皇紀2585年11月28日 支那
1 北京郊外
支那大陸の情勢は一層混迷の度合いを深めていた23日、今は亡き孫文の下で国共合作がなされた国民党において政変が起きた。
孫文という指導者の居なくなった国民党には共産党との合作に反発する者が日増しに声高く共産党の弾圧と叫び、呼応するかのように不満が噴出していった。
孫文の死後、すぐにその動きが起こり、党内左派の重鎮が暗殺されると、左派と共産党の巻き返しで暗殺を疑われた右派の重鎮が排除され、これによって党内右派の反共姿勢は露わになる。
危機感を持った右派の一部グループは孫文の棺が安置される寺院で決起集会を開くに至り、党中央とは別個に中国国民党中央執行委員会全体会議の開催を宣言、共産党員の国民党籍の剥奪、除名を決議、同時に左派の筆頭でもあった汪兆銘の弾劾を決議したのである。
この政変で国民党内部は大きく分裂することになる。彼ら右派に合流したものは「西山会議派」を名乗り、正当性を主張する。
だが、これに党中央も黙っていたわけではない。事態が伝わった25日、党中央は西山会議派の処分を宣言。合流を防ぐための統制を図る。
しかし、これは裏目に出るのであった。
元々、孫文の独断によって国共合作が行われたこともあり、内心では共産党との合作を快く思っていなかった者たちにとっては党中央の処分は共産党員による国民党の乗っ取りと受け止められたのである。
表面的には反発することを控えている者も多く居たが、多くの国民党員と党中央との溝は決定的となったのである。
2 広州
華北や華中における情勢の悪化とその推移を黙って見ている人物が広東省広州にいた。
彼の名を蒋介石という。後に北伐によって国民党の指導者として君臨する人物だ。彼はこの時期、軍学校の校長に過ぎなかった。
黄埔軍官学校……24年に設立された国民党の軍学校である。
孫文は北伐を行うには軍閥ではなく、軍閥から独立した党軍でなければならないと考え、蒋介石をソ連に派遣し軍事教練を受けさせ軍制度を学ばせ、彼をこの軍官学校の校長に据えた。
だが、孫文は「連ソ容共政策」を打ち出していた。これによって、共産党員もこの軍官学校に多く存在し、要職を占めていたのである。周恩来、毛沢東らもここに名を連ねていたのだ。
しかし、この軍官学校による党軍の育成は大きな成果を生むのであった。従来の軍閥依存の革命軍ではなく、国民党の革命軍、革命軍による北伐を可能としたのである。
その校長たる蒋介石はこの数日間の政変とその動きを注視していた。
「今は……まだ早い……あと少し、あと少しだけ時間を稼ぐ必要がある……準備が整えば……」
時機は来ている。だが、まだ孟子言うところの天地人が揃っていない。
彼は待つ。人の和……つまり自前の、自分の軍隊が出来上がるその時まで……。




