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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2585年(1925年)

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正力松太郎と読売新聞

皇紀2585年(1925年)8月7日 帝都東京 読売新聞社


 海軍大臣財部彪の主要新聞恫喝から一夜明けたこの日、各新聞社は報道姿勢、紙面構成を変え、報道のあるべき姿に立ち返っていた。無論、従前の姿勢を正当化し、身勝手な報道の自由を標榜している新聞社もいくつか存在したが……。


 この一件で読売新聞が報道姿勢、紙面構成を変えた理由を説明しなくてはならないだろう。


 虎の門事件で引責によって内務省を懲戒免職処分となった正力松太郎は史実通り、後藤新平らの斡旋と資金提供によって読売新聞の経営権を買収し、経営環境が悪化していた同紙の経営改革に乗り出していた。


 正力は25年に始まったラジオ放送に合わせ、ラジオ放送欄の充実や自社イベントの開催、地方版、日曜夕刊など積極的な事業拡大と副収入確保による経営環境の改善を進め、社長就任2年目にしてその実績を出していた。


 正力による経営改革という第一の転機によって大きく飛躍し始めた読売新聞だが、第二の転機がやってきたのである。それが加藤声明とそれに続く統帥権干犯問題、幣原失言、財部海相の新聞各紙への恫喝である。


 一連の動きで、正力は発行部数の拡大の好機であると踏んでいたが、それでも紙面構成や取材などに関しては従来通りという状況だった。


 しかし、財部によって治安維持法による処分をちらつかされたことと、内務省、司法省から新聞紙法への抵触を具体的に指摘されたことで、6日の編集会議で報道姿勢、紙面構成の転換に踏み切ることが出来たのである。


 元々内務官僚として正力はアカ狩りや暴徒鎮圧を指導してきた側であるため、内務省・司法省の手の内はよく理解していた。そのため、会議を主導し、現場の声を抑え、報道の中立、公正公平な報道、紙面構成上行われてきた取材内容の取捨選択を廃止することとしたのである。


「あるがまま、何も足さず、何も引かない。報道というのはそれこそが正しきあるべき道だ。主義主張は社説や論評でやれば良い。記事にはそんなものは要らない。読者が必要としているのは、我々の作った料理ではなく、調理する前の素材そのものだ……調理して料理にするのは読者の領分だ」


 正力は会議の最後にそう言って異論を封じたのであった。


 正力の方針に反発した記者や社員が即日退社し、従来路線を標榜する朝日新聞や東京日日新聞に後日合流することとなったが、その逆もあり、朝日、東日から読売に合流した記者たちもいたのであった。


 翌8日、有坂総一郎は王子製紙の藤原銀次郎を大口取引の好機と口説き落とし、読売新聞への優先的な紙供給と有坂・藤原連名による出資を引き出した。そして、藤原と合意した足で正力のもとに訪れ、これを提示したのである。


 正力は自身の中で秘めていた全国紙への野望を実現する好機となったのである。

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