鉄道王
皇紀2585年6月15日 帝都東京
逼迫するトラック需要だが、生産されるトラックは積載重量2トン程度という現状に鉄道大臣仙谷貢は「トラックに搭載されている発動機の出力が足りない」ことが原因だと言う。
これに対し、中島飛行機社長中島知久平は自社のライセンス生産品の車載転用を提案する。航空機用液冷発動機、ローレン四五〇馬力発動機を車載転用することで、存在しない大馬力車載発動機の代用とし、現下の問題を打開しようというのだ。
「中島さん、そのローレン発動機、簡単に車載転用出来るのかい?」
堤康次郎は中島に鋭い視線で問う。ピストル堤と言われた眼光である。
「おいそれとはいかんでしょうが年内には目処が付くと良いとは思う……量産体制は……来年の今頃には出来ると思うが……」
中島は頭の中でおおよそのスケジュールを組み立てながら堤に答える。すると堤の表情が途端に柔らかいものになった。
「中島さん、所沢に土地を用意しますから、そこで車載用発動機の生産工場をお造りなさい。上州太田の今の工場では手狭でしょうから、航空機と自動車は別に事業されると良いと思う。如何だろうか?」
「いや、しかし、堤さん、そんなことをポンと……」
中島は堤の申し出に困惑していた。
「中島さん、私は、売るときは大威張りで、買うときは良いものを安く売ってもらうという信条なんだ。つまり、ここで所沢に中島飛行機の工場を誘致するという話は、良いものを安く買う、これそのものなのですよ。中島飛行機が所沢で事業をすれば、周辺地域から人が集まる。そこに商機が生まれる」
中島は堤の言葉に納得した。
――近江商人とはこういうものか? それとも、堤という人がこういう人なのか?
有坂総一郎は堤という人物を興味深く見つめていた。
「わかりました。社内で検討のうえで改めてお返事させていただこう……恐らくは堤さんの申し出をお受けすることになるでしょう……そうと決まれば、有坂さん、ちと電話をお借りしますぞ」
中島はそう言うと大広間から電話のある玄関に向かった。
席を立った中島を見送る堤は満足そうに口を開く。
「中島さんも人物だ。今日は良い商売が出来た……これで武蔵野鉄道の経営にも良い影響が出る」
「私も堤さんを見習わないといけませんな。目蒲電鉄と東京横浜電鉄を預かるこの五島、まだまだ青いなと思い知りましたよ」
後に強盗慶太と称される五島慶太も堤の商才に唸らずにいられなかった。
この時期の五島はまだ阪急総帥小林一三の教えに沿って経営活動している時期で、強盗と呼ばれる強引な手段でのM&Aを実行するには至っていないが、小林仕込みの鉄道運営の才覚はその輝きを増しつつある時期であった。
「五島君、まずは足元を固めるべきだ。堤さんは土地取引の才があるから素早く動いたのだろう。君は、鉄道が本業。同じことをしても、立ち位置が違うのだから、堤さんと同じことをしても駄目だ」
小林は五島に忠告するのを忘れない。五島が東京横浜電鉄の経営権を得てからまだ数ヶ月であり、足場が固まっていない時期での大博打を戒める意味もあった。
小林の言葉に従い、五島は堅実に目蒲電鉄を経営し、沿線の開発を進め、関東大震災という災害を契機に郊外地域である目蒲電鉄沿線に都心からの移住者相手に住宅の分譲を推し進めたことで、あっという間に東京横浜電鉄の前身である武蔵電鉄の経営権を得るほどの巨利を得た。
これによって五島は武蔵電鉄を買収、東京横浜電鉄と改称し、目蒲電鉄とともに東京-横浜間の郊外開発をより一層推し進めるに至る。現在、東京横浜電鉄は渋谷-横浜間の東横線の建設を推し進めている。
列島改造論の影響もあり、既存線区や新線の改軌準備工事も並行して行っており、目蒲電鉄の多摩川線は折り返し運転となったことを契機に複線化し、線増分を標準軌で敷設し、後日、既設線の改軌が行われた。目黒線区間も同様の改良工事が行われていて年内には標準軌化が完了する見込みであるという。
東京横浜電鉄の東横線も全線開通(26年度中)と同時に標準軌へ切り替えがされることとなっており、帝都近郊での全線標準軌化の第一号となる予定であり、27年4月に両社は対等合併の上で東京急行電鉄と名乗ることとなっている。
五島の功績によって史実より郊外への人口の移転が進んだおかげで、都心に緑地帯が生まれ、同時に下町の工業地帯への転換が可能となったのである。
また、京成電気軌道が五島の事例を真似し、京葉間の開発に着手、史実よりも30年以上早く北総方面へのニュータウン開発と新線建設を始めていたのである。
「君の功績は大きいものだよ。帝都はこれで再開発されるし、郊外に広がった都市圏は大きな商機を生みだす」
小林は五島に自信を持たせるように言った。




