5・30事件
皇紀2585年6月10日 中華民国 上海
日系紡績企業において中国共産党員による扇動で5月15日に暴動が発生、扇動した共産党員が射殺されその巻き添えを食った工員たちに重軽傷者多数を出し鎮圧されると、暴走及びストライキは上海だけでなく、青島に飛び火、これに対し、山東半島に展開している帝国陸海軍及び北京の北洋政府は即時鎮圧に動いた。
これによって国民党の上海指導部は反日デモを企画、30日に上海各地で大規模な抗議活動が行われた。だが、上海は列強の租界が広がる都市であり、租界の警察機構である上海公共租界巡捕房は租界の治安維持を担保するため抗議活動の指導者である学生数十名を逮捕連行したのである。
これに反発した支那人民衆は学生らの釈放を求め、反日デモ以上の数千人規模の大規模デモを繰り広げた。しかし、租界に権益を有する列強、特に大英帝国や大日本帝国は他の列強諸国や権益を有する国家の駐屯部隊を動員しこれの取り締まりを開始するのであった。そして租界当局も列強と歩調を同じくした。
各国の警察機構も指揮を執っていた大英帝国の警部の指示の下、インド人警官隊などがデモ隊への発砲を開始、これによって死者数十名、負傷者百名以上という犠牲が出ることとなった。この英国警官の発砲指示に反発した支那人民衆が上海全レベルで蜂起しゼネストに発展することとなった。
事態が拡大すると大日本帝国と大英帝国、アメリカ合衆国、イタリア王国は上海に陸上兵力を上陸展開させ租界の確保と防衛を開始するという列強の全面介入に発展するのである。
だが、支那の民衆も列強と列強の下請け状態である北京北洋政府に反旗を翻し、上海、香港、広州、天津など列強の影響力が強い地域でゼネストを敢行し、また、英国製品のボイコットも行ったことで、この地域の経済は完全に麻痺し数年にわたってその影響は残ることとなる。
同時に実際に発砲したインド人への憎悪も扇動され、反英・反インド感情が高まったのである。
史実にほぼ即した事件ではあったが、規模や犠牲者は史実に数倍するものであり、大英帝国は支那における権益の維持のための駐留部隊の増強、ソ連の支援による共産主義者の浸透への警戒、国民党への不信感が高まることとなった。
このため、経済的な地位が低下した香港の要塞化、根拠地化を進めると同時に、支那への策源地として大日本帝国との協調の必要性が大英帝国本国で議論されることとなる。
また、この反日・反英闘争が国民党の支持基盤となるのは必然であり、その受け皿として蒋介石の存在感が向上したのであった。




