謀略
皇紀2585年4月20日 帝都東京
長年懸案だった農商務省の分割が行われ、新設された農林省と商工省が4月1日から業務を始めた。
農商務省の分割論は長年議論されてきたが、ここ数年の米価高騰と輸入米の影響により、農業関係団体が不満を爆発させたことで遂に実行されるに至ったのだ。
欧州大戦勃発時から比べると米価はおよそ2倍にまで高騰し、鈴木商店の金子直吉などは外国産米の輸入で不足する米を流通させようとしていたが、何故か買い占めをしていると誤解され糾弾されていた。彼はこれに具体的に反論もしなかったことから鈴木商店への不信感が増幅したと言われている。
さて、この状況に帝国政府が全くの無策であったかといえばそうでもない。開墾助成法を制定し、農業振興を図っているが、機械化もされていない前近代的な集団農業をやっている日本においては即効性のある事業ではなかったのだ。
これらの効果の薄い政策によって米価はじわじわと上がり続けたのである。
初代商工大臣には立憲政友会の高橋是清が就任し、産業振興の旗振り役になっていたのだが……。加藤高明内閣において立憲政友会と憲政会を繋ぐ役割をしていた司法大臣横田千之助が史実同様に病死したことから両党の間に隙間風が吹くようになったのである。
そこに高橋が立憲政友会総裁を退任したいと漏らしていたことから事態はさらにややこしくなる。結局、高橋は総裁退任することとなり、僅か3週間に満たない日数で初代商工大臣は罷免され、交代されることとなったのである。
この横田の死、高橋の退任によって両党を繋ぐパイプ役が存在しなくなったことで、立憲政友会は次第に内閣にありながら憲政会と距離を置くようになったのである。
だが、そんな政局を見つつも、農商務省の分割によって仕事がやりやすくなった者たちもいた。それは2つの勢力である。第一の勢力は商工省の新進気鋭の官僚たち。もう一つは有坂一派である。
「さぁ、俺たちの時代だ!」
と商工省の庁舎で気勢を上げている集団にいるのは吉野信次、岸信介、木戸幸一といった商工官僚の中でも革新派グループに属する者たちであった。
彼らは30年代に政党政治の終焉とともに政界に進出し、己の野望を着実に実現して見せた者たちだ。そして戦後において、戦前戦中の経験と満州における実験結果を戦後復興に役立て、傾斜生産方式や護送船団方式などで経済復興と高度成長の基盤を整えた。
彼らはこの世界でも同様に統制計画経済による国家主導の経済運営をするのであろうか?
一方、有坂一派は農林省に勢力を伸ばそうと画策していた。
陸軍の軍縮による余剰人員の除隊を受けて地方連隊区は多くの在郷軍人を抱えることとなった。だが、彼らも復帰すべき職場がある者は良いが、多くは農家、それも小作の出である。帰郷しても食い扶持が保証されているわけではなかった。
そこに有坂一派は付け込む余地があったのだ。
陸軍の原乙未生中尉の開発主導した本格的な量産型ブルドーザーを有坂重工業はフル生産し、鉄道省向けに納品していたが、鉄道省向け以外の生産余裕が出来たことから東北方面の再開発へこれを充てることとしたのである。
特に除隊者が多い東北の雇用環境の改善は農林省の側でも頭を抱えていた問題であり、米価高騰という問題もあり、逆に陸軍の軍縮に待ったをかけてきたくらいであったが、帝国政府としても陸軍の軍縮による予算縮減効果を優先したいこともあり、農林省の要望は却下されていた。
「いくらか土木作業の経験があるものであれば鉄道省が引き受けてもいい」
鉄道大臣仙谷貢は新任の農林大臣岡崎邦輔へ助け舟を出したが、これも計算の内であった。
元々、列島改造論とは別に鉄道省は地方ローカル線の整備という問題を抱えていたが、線路を敷設するには赤字が目に見えている地域にも交通手段を確保するために自動車道路の建設を望んでいた。
地方路線のバス運営はフォード・ジャパンの進出によって目処が立ったが、問題はバスが確保出来ても運転すべき道路が未整備だということである。
これを解決するには鉄道省の事業と別枠で予算と人員を確保する必要があったのだ。そして、鉄道省が抱える地方路線計画は東北が中心であったことから、農林省を抱き込もうという策略を考え付いたのであった。
「予算が足りなければ、予算のあるところから奪ってくればいいじゃない? 農林省に恩を売って農林省の予算で道路を造れば鉄道省の予算が減らずに道路が出来て、バスも運行出来る。そして、道路が改善されれば流通が改善される!」
鉄道省の顧問であり、列島改造論の黒幕である有坂総一郎は鉄道省での会議で主張し、鉄道官僚が揃って「それだ!」と満場一致を見せたことで、総一郎の発案で農林省はその宛がわれた予算を鉄道省に持って行かれてしまう羽目になった。
こうして、農商務省の分割によって生まれた新しい省の予算と事業を巡って色々な者たちの思惑が交錯し始めたのであった。




