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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2585年(1925年)

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年末年始の世界情勢

皇紀2585年(1925年)3月13日 帝都東京


 怒涛の一年が終わり、新たな年を迎えた帝都であったが、この年も年始から世界はめまぐるしく動いている。


 昨年11月に支那において第二次奉直戦争が終結、裏切りと結託によって奉天を根城とする軍閥で張作霖軍閥が最終的に勝利をおさめ、広州にいる孫文に彼を中華民国主持政事として遇すると約束し北京へ来るように要請し、孫文もこれを受け入れ北京へ向かった。


 だが、残念ながら孫文と張作霖の約束は空手形となり、政治的権力は何一つ移譲されず、名目上の存在となり、明けて25年3月12日に失意の中病没した。


 結果、張作霖の手に北支の支配権は転がり込んだのである。支那情勢は極めて不穏な様相を呈していたが、張作霖の手に落ちたことで一定の安定を迎えた。だが、張作霖と北京政府の統制が効かない中支、南支では蒋介石が勢力を糾合するため水面下で動き始めるのも時間の問題であった。


「孫文死す」


 この情報に接した大日本帝国国内の大アジア主義者や大陸浪人たちは北京や南京などに弔電を発し、また、香典などの弔慰金の収集に動き始めていた。


 また、同様に帝国からの独立を主張する朝鮮人活動家や亡命大韓民国政府を名乗る犯罪者集団はこの機に乗じ、大アジア主義者たちの弔慰金カンパの呼びかけに乗っかり、活動資金を得ようと上海などで行動に移していた。


 帝国の大アジア主義者たちは幅広い人脈により帝国全土から弔慰金を集めることに成功していたのであるが、朝鮮人活動家たちのそれは暗澹たる結果であった。もっとも、それは彼ら自身の日頃の行いによるものであり、同情の余地はなかった。


 彼らが日々、上海や支那各地でアヘンを売り捌き、非合法のエロ本を売り捌いている闇商人であることは周知の事実であり、それが治安悪化に貢献していることは支那の官憲にとっても見過ごせないことであった。当然の結果、彼らは支那の官憲によって罰せられ、投獄されるという自業自得の結果となったのである。


 欧州に目を転じてみる。


 ローマ進軍によって首相職に就いたベニト・ムッソリーニは、混乱しているイタリア政界に失望し、多党制を維持したままでの挙国一致体制構築は不可能と判断。遂に25年1月3日、独裁制を宣言するに至った。


「この演説から四十八時間以内に事情が明らかになる事を覚悟せよ。諸君、自分の心にあるのは個人の私利私欲でもなく、政権への欲求でもなく、下劣な俗情でもない。ただ限りなく、勢い強い、祖国への愛だけだ!」


 彼によると自身は独裁主義を望んでいるのではなく、ローマ進軍から独裁宣言までの間に連立政権などで制度改革を望んだが、どれも不十分であり、政治的内紛などに悩まされた結果、全体主義確立までの間、独裁制が必要であるという消極的理由によるものだった。


また、貿易赤字と物価上昇という経済の行き詰まりにより、彼は経済政策を計画経済へと切り替えようと考えていた。後に財務大臣を更迭し、実業家のジュゼッペ・ヴォルピが新財務大臣へと就任することになる。彼の政策によって、自由貿易から保護貿易へ転換され、中央銀行の機能強化、大資本による生産合理化、デフレ政策、リラ高政策が推し進められることとなる。


 そして、1月20日。


 大日本帝国とソビエト連邦の間で日ソ基本条約が締結された。内容は史実に準じてはいるが、ソ連及びその後継国家による千島列島、南樺太の半永久的な領土変更要求放棄を明記し、北樺太の完全譲渡と同様に領有権放棄を明記してあった。沿海州などの扱いについては明確な表現はされていないが、日本影響圏(勢力圏)の尊重が謳われている。無論、オハ油田に関しても日本領であるからソ連の請求権は喪失している。


 2月を迎えるとドイツ情勢が加速している。


 前年12月にランツベルク要塞監獄に収監されていたアドルフ・ヒトラーが釈放され、国家社会主義ドイツ労働者党の再建が進められていた。明けて1月4日にバイエルン首相との会見にこぎつけ、翌2月16日に政党結成許可が下りるのであった。


 この時、ドイツ駐在の石原莞爾少佐が暗躍し、オーストリア亡命中のヘルマン・ゲーリングとナチ党関係者を仲介していたのであるが、これは歴史には一切表に出ない話である。


 2月27日、ミュンヘン一揆の舞台であるビュルガーブロイケラーにおいて再結党大会が開かれたのである。この再結党大会には3000人もの参加者を動員することに成功し、ヒトラーは感極まった表情でゲーリングの忠誠と貢献を讃えたのである。


「諸君! 私が、諸君が、再びこうして相まみえることが出来たのも、すべては……すべてはこのヘルマン! ヘルマン・ゲーリングの貢献によるものだ! 彼は私が収監されている間、党の実権を握らんと不穏な動きをしたのではなく、私と諸君のために資金を集め、多くの人々に掛け合ってくれていた! 彼の貢献がなければ、私はここには居られない! 私は永遠の友を得ることが出来た! 諸君らも彼を讃えて欲しい!」


 ヒトラーの称賛によってナチ党の権力構造は史実とは異なり、ゲーリングに優位となったのである。

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