”中野”学校をつくろう!
皇紀2584年11月8日 帝都東京
「東條さん、中野学校を作りましょう」
この日、東條英機大佐は有坂邸を訪ねていた。
先だって平賀譲少将との会談においての懸案を有坂総一郎と相談するために訪問したはずだったが、先を越され総一郎から中野学校創設を切り出されたのであった。
「中野学校……あれか? 岩畔豪雄が設立した防諜を主目的とした奴だな……。スパイが主目的か?」
陸軍中野学校。岩畔が陸軍省に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。37年という風雲急を告げる時流に謀略の重要性を認識していた岩畔は日本が出遅れていると感じていた。同年末、陸軍省は諜報育成機関の設置を決定、翌38年3月に岩畔らに命じ「防諜研究所」が開設され、同年7月に特種勤務要員の訓練を開始している。
その後、紆余曲折があり、陸軍中野学校と改名され参謀本部直轄の軍学校へと発展していく。当初は純粋なスパイ養成機関であったが、戦時中に戦局は悪化する中でゲリラ戦術教育機関へと変貌していき、二俣分校が設立されるに至る。
当時、純粋な軍人からのスパイ養成であったが、商社マンや通信社員などを装って活動する場合、軍人的な無意識の行動で活動を妨げることから、大学など高等教育を受けた者を選抜し、彼らを工作員へと仕立てていった。
だが、時は既に遅く、彼らが活躍しきることはなかった。
「総理時代に敵に暗号が解読されていた、情報が筒抜けだった……という経験が多々あったのではないですか? それはなにも暗号解読によるものだけではありません。連合国に雇われたコーストウォッチャーが占領地から情報を横流ししていたということもあのガ島では日常茶飯事でした。それは諜報機関の活動の一例です……」
総一郎は具体例を出して東條を促す。
東條にとってガ島とニューギニアは地獄絵図の始まりでしかなかったからだ。情報を渡してこないくせに輸送船の割り当てを増やせと言ってきた陸軍参謀本部との大喧嘩は彼にとっても痛恨事だった。
総理として国内へ割り当てる船腹量を維持したいにも関わらず、ガ島奪還のために輸送船を割り当てろと参謀本部は要求してきて、東條はこれに激怒することとなった。参謀本部は要求を通してもらう代わりに詫びとして担当者を更迭し手打ちと持ちかけてきたのだ。
結果……ガ島へ割り当てられた輸送船は海の藻屑となり、本土への物資還流、各地への補給が滞ることとなったのだ。
「あのガ島の地獄絵図はコーストウォッチャーが原因だったのか……」
東條の額に血管が浮き出ていた。色々な意味で彼は怒りが再燃していたのだろう。
「ええ、それだけではなく……三井や三菱などと取引をしている外国人もまた恐らくは本業の裏でスパイ工作をしていますよ。本業で扱う各種商品の動きからでも軍需関係を推し測ることが可能ですからね」
「そんなことでか?」
東條は意外そうな表情をする。
実際、三井や三菱などから些細な日常会話から日本の軍事情報が相当数漏れ出していた。それは超極秘扱いであった大和型の情報とて例外ではない。
「彼らは統計や帳簿などの数字だけでも、多くのことを知り、多くの仮説を立てると言います。そうなると、我が帝国の内情はかなり筒抜けとなっていると思います。先のシベリア出兵で足りない火薬を外国から買い集めたことからも我が帝国の火薬生産能力が白日の下になったと考えても良いでしょうね」
総一郎の駄目押しの一言で東條は完全に黙り込んでしまった。




