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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2584年(1924年)

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英雄将軍たちの動向

皇紀2584年(1924年)11月 帝都東京


 一世を風靡した英雄将軍たちはあれ以来どう過ごしていただろうか?


 第8旅団を指揮した荒木貞夫少将はシベリアから凱旋した後、24年1月に憲兵司令官へ補任され帝都に赴任している。この間に、元大審院長平沼騏一郎らが設立した国本社に合流し、同じ陸軍軍人である宇垣一成とともに理事を務めていた。概ね、彼は保守・国粋主義的な思想に従って史実通りに動いているようだ。


 彼の属している国本社とは一体何なのか?


 国本社とは平沼を発起人とし、司法官僚、陸海軍高級将校らが参加した保守派、国粋主義団体である。主な構成員は、会長を務める平沼、副会長に東郷平八郎元帥大将、山川健二郎元帝大総長、官僚出身では台湾総督府総務長官の後藤文夫、貴族院議員の鈴木喜三郎など、海軍出身では東郷、加藤寛治など艦隊派に属する者たち、陸軍出身では宇垣、荒木、真崎甚三郎、小磯国昭、永田鉄山など派閥を越えて属している。


 幅広い人材を抱える大規模な国粋主義団体であり、最大時には20万人を超える会員がいたと史実では知られている。


 国本社に属してからの荒木は殊の外平沼に心酔し、彼の復権と影響力拡大のために行動している節があった。元々、平沼が大審院長を辞職した理由は治安維持法の制定と引き換えのものであった。


 その後、司法大臣の椅子を狙うが、虎の門事件の影響や山本内閣が総選挙後に政権をあっさりと引き渡したことなどによって司法大臣の椅子どころか国務大臣の椅子にすら座れない状態にであった。


 ここに荒木の暗躍する余地があったのだ。


「なに、このワシが周旋して見せましょうぞ!」


 荒木は凱旋将軍という絶大な影響力と憲兵司令官という立場を利用して陸軍の若手将校に国本社の思想をじわじわと浸透させて、シベリア以来、子飼いとなっている小畑敏四郎中佐に陸大の教え子たちへ周旋させていたのであった。


 もう一人の凱旋将軍、第1旅団長として樺太方面から搦手を攻めた真崎甚三郎少将はどうであっただろうか?


 彼もまた国本社に属し、荒木らと行動を共にしていたが、凱旋後、陸軍首脳は荒木と真崎を近くにいさせるのは危険であると判断、一時期陸軍士官学校に赴任させるが、すぐに欧米への長期出張を命じた。


 彼は陸軍視察団の欧米歴訪と同時に帰国することとなり、9月下旬に横浜へと帰着したのであった。


 史実と異なり、彼らの人望、名声は大きく、同時に若手将校の絶大な支持のもとに国本社の思想を基本とした皇道派を自称する様になったのはもう暫く後のことである。

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