排日移民法
皇紀2584年7月 アメリカ
有坂総一郎ら国策企業訪欧団と原乙未生中尉ら陸軍視察団はドイツでの視察、買い付けが終わるとイギリスに移動し、ブリストル社を訪問していた。
1923年に開発されたばかりの新型ジュピターエンジンのライセンス交渉のためである。史実では中島飛行機がこのジュピターエンジンのライセンス権を購入し、後に栄や誉へと発展させる基となったエンジンだ。
中島飛行機も社長である中島知久平以下数名の人員を国策企業訪欧団へ派遣しており、史実通りに中島飛行機はこのライセンス権を入手することが出来た。
この時、ブリストル社のロイ・フェデン技師に総一郎はとある提案を行った。
「ジュピターに過給機を取り付け、エンジン回転数を増加させた仕様のエンジン開発をなさってはどうか?」
史実では1925年にスタートするフェデン技師のプロジェクト、後にマーキュリーやペガサスとなるエンジン開発を前倒しで行う様に仕向ける策であった。
「開発に成功なさったら、その時は喜んでライセンス権を購入させていただきたい……これは貴社だけでなく、貴国に大きく利益をもたらすものであると確信している……いくらか、我々も費用負担させていただくので、我が国の技師たちとともに是非挑戦していただきたい」
駄目押しの一言でフェデン技師は上機嫌となり、彼がブリストル社上層部と掛け合った結果、日英共同開発という体裁が整うのであった。
ブリストル社との技術交流が確約され、大口での契約が結ばれたことで、ブリストル社は日本側に立ったロビー活動を大英帝国政財界に行い始めるのはこの年の秋のことであった。その成果が出てくるのはまだ少し先のことになる。
訪欧団と視察団がイギリスを後にし、大西洋航路でニューヨークへ至ったのは7月も中旬のことであった。彼らがアメリカに到着した時には史実通りに排日移民法が成立していたのである。
排日移民法は日本人だけでなく全アジア人の移民を禁止するものであったが、クーリッジ大統領が危惧した通り、日本人を排斥する意図は明白であった。これによって後年史実では日米外交に大きく影響を与え、日本側の対米不信を深め、また、アメリカ側の対日侮蔑感情を醸成することになるのである。
だが、訪欧団……正確に言えば総一郎だが……は、渡米した移民たちを内地へ引き戻そうと考えていた。
今後、内地の列島改造と改軌が進めば、おのずと人材不足に直面するため、移民による食い扶持減らしそのものが大日本帝国には必要がないものとなるからだ。そのために、既に渡米して財を成しているものでなければ出戻りによる恩恵を提示し、アメリカからの引き上げを狙っているのだ。
「今後、帝国は深刻な人材不足となる。米国で臥薪嘗胆、艱難辛苦のアメリカンドリームを夢見るよりも、確実に明日の未来を約束する帝国へ移民たちは戻ってきて欲しい……フロンティアはアメリカではなく、日本にある!」
ニューヨークにおいて訪欧団の歓迎セレモニーで総一郎はそのように演説した。
「アメリカ企業も我が帝国には大きなビジネスチャンスがあるとお約束しましょう……自動車産業はこれから大きく伸びる。そして自動車産業が伸びるということは建設機械の需要が大きくなる……。インフラ整備が進めば、そこには今までにない市場が……マーケット、いやフロンティアが広がることを経営者の皆様方は容易に想像出来ると私は確信しております!」




