Girl's Like
雲ひとつない空を見上げ、私は「ほぅ」と息を漏らした。
そこに浮かぶ満月は、並ぶものもない程に美しかったから。
古くから「月は人を狂わせる」と言う。
妖艶な光がまるで媚薬の様に、人の正気を奪うのだろう。
私も……恐らくは運の悪い事に、その魔力に中てられていた。
湧き上がる劣情。
自分でも信じられない程の衝動に、私は突き動かされている。
火照った体を撫でる、涼やかな風。
狂ったような心臓と、狂っている私の思考。
いや、そもそも、何をもって正常とするのだろうか?
嘘にまみれた一般論は、結局の所ウソである。
だからきっと、その時の私は正常で―――
―――狂っていたのは彼女の方だ。
「……こんばんは」
七月五日、月夜の晩に……。
私は一人、彼女と出会う。
そして私は……。
そして私は……恋をした。
◇ ◇ ◇
「はぁ!? 信じらんないっ!」
私は激昂した。
頭の中がふっと冷たくなって、でも沸騰していく矛盾した感覚。
そりゃ人並みに親子喧嘩はやったことあるよ?
でもこんなに、ワケわかんなくなるくらい頭にきた事なんか、今までに一度もない。
「しょうがないでしょ? そもそもアンタが……」
お母さんのつまらない言い訳。
でも今の私にはこれっぽっちも効果ナシ。
一方的に身勝手に、自分の中の苛立ちを発散する。
「そんな言い訳聞きたくないよ! いつもいつもお母さんは考えなしで……少し考えたら解るでしょ?」
「そんな言い方しなくても良いじゃない! だいたいアンタだって……」
ッ!
「うるさいなッ! もういいよ!」
……。
沈黙。
しまった、流石に言い過ぎたか。
大声を張り上げて少しだけ落ち着いた私は、今の台詞の重大さに気付いた。
謝ろう、そう思う自分と、今更ひっこみがつかない……そう思う自分が居た。
「あ……」
続く沈黙。
重たい空気。胸が苦しい。
お母さんは何も言わない。
私もそうだ。
だからその場はずっと静かで、私は泣きそうになる。
ちょっとばかりの自尊心で涙を堪え、私は部屋を飛び出した。
素直に謝る事も、お母さんを責める事も出来ない中途半端な私は、結局その場から逃げ出して誤魔化すしかないんだ。
お風呂上りだったから、まだ髪が濡れている。
それでも私は走った。得体のしれない何かを吹き飛ばす為に。
走っていれば、走っていさえすれば……違う私になれるような、そんな気がしたから。
◇ ◇ ◇
そうして私がたどり着いたのは、普段はあまり通らない川沿いの土手だった。
「はぁっ、はぁっ……」
息があがる。無茶なペースで走った為か、少しだけ気持ちが悪い。
「……っ…はぁ」
溜息をつく。
冷静になれば成る程、さっきまでの自分を矮小に感じた。
本当に弱い私……。
こんなくだらない事で家を飛び出して……いや、そんなのどうでもいい。
家を飛び出す、なんて大した事じゃない。むしろ問題は、お母さんを傷つけてしまった事……。
「……なんて言って謝ろうかな……」
うーんと唸って、私は謝罪の文句を考える。
飾らない、私の素直な言葉。
たった一言だけの「ごめんなさい」。
「うん、それでいこう」
もともとアレコレ考えるのは得意じゃない。
計画性だって有るわけじゃないし、シンプルな方が私らしい。
よしよしと一人うなずいて、私は踵を返した。
そうと決まればレッツゴーホーム、さっさと家に帰りましょう。
なんとなく上機嫌な私は、鼻歌を歌いながら頭上一杯に広がる夜空を見上げた。
「うわぁ……」
雲がひとつもない……澄み切った空って、こういうのを言うのかな?
私はくるっと一回転してお月様を探す。
「……は……ぁ」
思わず溜息をついてしまうほど、そこに浮かぶ満月は美しかった。
人間には決して作り出せない輝き。
大自然が生み出した、究極の宝石。
私は飲み込まれるように、月を見続けていた。
時間の感覚を忘れる。その時の私は、確かに時間という概念の外にいた。
一瞬のような永遠。永劫のような刹那。
現実に引き戻したのは、正面から迫る人の気配。
視線を元にもどす。
そして私は、仰天した。
「……こんばんは」
優雅に、たおやかに声をかけてきたその女の子は……その……。
ビックリしちゃうくらい、可愛かったから。
「こッ、こんにちは」
声が裏返る。自分が動揺していると、一瞬で気付いた。
月光に照らされた彼女は、まるでお人形。
肩にかかる位の絹みたいな髪の毛に始まり、抜けるような白い肌、全体的に小さくまとまった顔のパーツ……特に唇は瑞々しくて、まるで果物のような新鮮な艶やかさを持っている。
日本人形と西洋人形を折衷したような、完成された美しさ。
身長は少し低めで、その可愛らしさを際立たせている。
「あの……」
信じらんない……こんな子がこの世に、いや、私の生活圏に存在したなんて。
まじまじと、彼女の容姿を観察する。
うーん、ホントに可愛いなぁ。
あ、でも、胸のサイズは勝ってるような……?
「あのっ!」
「ッ……は、はい?」
し、心臓が飛び出るかと思った。
体に似合わずでっかい声出すなぁ、夜だってのに。
「私の顔……何か付いてますか? それと夜の挨拶はこんばんは……だと思いますけど?」
「あ……」
私としたことが、これじゃまるで不審者だ。
ブンブンと頭を振って邪念を払う。
自分では気付かない内にかなり興奮していたようで、心臓の鼓動が信じられないほど早くなっていた。
ゆっくりと深呼吸をして、気分を落ち着ける。
「あの……どうかしましたか?」
不思議そうな顔で、目の前の絶世美少女は私の顔を上目遣いに見上げた。
「う……いや、なんでもないよ……です」
うわ、思いっきり変な口調になっちゃった。
おかしいな……いくら相手が人間離れした容姿を持っているからって、こんなに調子が狂うなんて。
「おもしろい人ですね、お姉さん」
「へ……私?」
今度は二重の驚き。
一つ、私が面白い、という事。
もう一つ、私がお姉さん、という事。
って、何故!
「なんで、私が……?」
「うーん……雰囲気、っていうんですか?」
それはどっちに対する答えだろう。
少し気になったがしつこく追求するのもアレなので話しを変える。
「ところで何をしていたの? こんな夜中に」
「あっ……と……散歩、です……そう、夜のお散歩」
散歩、かぁ。
夜に出歩くなんて無用心な気もするけど、彼女の場合は様になっているというか、あぁ、良いなぁって思ってしまう。
美少女の夜歩き……。うん、絵になるな。
「……? どうしたんですか? 急に黙って」
「あ……えっと」
しまった、またアホな事を考えていた。
本当に私、一体どうしたんだろう。
「そう、喧嘩! 私、さっきお母さんと喧嘩して……家、飛び出してきちゃって」
アナタがあんまり可愛いから云々とは言えず、適当に取り繕う。
すると彼女は一瞬表情を曇らせたかと思うと、すぐに笑顔に戻って言った。
「喧嘩……ですか? 良いなぁ、ちょっと羨ましいです」
「えっ?」
想像の範疇を超えた応答。
羨ま、しい?
一体何が?
「あっ、もうこんな時間……そろそろ帰らなきゃ」
腕時計をちらっと見て、少女はそう言った。
「そうだ、明日もまた会えませんか? 私、毎日ここを歩いているんです」
「え、明日? う、うん! わかった」
「約束ですよ? では、さようなら!」
颯爽と駆けて行く美少女。
その後姿はどこか愛嬌があって、やっぱり可愛かった。
「……はぁ」
再び溜息をつく。今度のはその、さっきより少し邪な気持ちがあったりなかったり。
「また明日……会えるんだ」
明日が待ち遠しい。
きっと遠く離れた恋人と久しぶりに会うときって、こんな気持ちなんだろうな……なんて。
「私……どうしたんだろう」
ちょっと自己嫌悪する。
いくら相手が絶世の美少女だからって、いや、美少女だからこそ……私に芽生えたこの気持ちは不純なんだ。
おかしいな……私、同性愛の気なんかない筈なのに。
「……でも」
一目惚れって、本当にあるんだ。
なんて考える、やっぱり少し浮き足立ってる私であった。
◇ ◇ ◇
翌日……。
用意された朝食を食べながら今夜の事を考えてニヤついていると、寝ぼけ眼の
お兄ちゃんがやってきた。
「……おはよ」
短く告げる。
自慢じゃないが兄妹仲はいまひとつなので、兄とのコミュニケーションは常に淡白だ。
いまひとつとは言ったが、仲が悪いという訳ではない。
むしろ一緒に出かけたりとか、あったりもしたし……。
ただ最近になって、私に少し男っぽい所があるのは兄の所為では? なんて考えてしまい、距離をおくようにした。
そう! なんだか解らないけど私は男っぽいのだ。
この前だって友達の子に言われたし……密かにコンプレックスを感じているんだけど……これがなんとも直らない。
具体的にどこが男っぽいのかは解らない。なんとなく……雰囲気が『そう』らしいんだけど。
とりあえず原因になりそうなものからは離れないと……。
そんなこんなで兄離れの真っ最中。兄弟仲がいまひとつってのはそういうことです。
「どうした? なんか嬉しそうだけど?」
寝起きで冴えない声。出来るだけポーカーフェイスを装ったんだけど、どうやら失敗したらしい。
「べつに」
無愛想に答える。
まさか今日も夜歩きをするなんて、口が滑っても言えない。
私の両親は二人ともそういった事には厳しいのだ。
兄から伝聞しないとは限らないし……あの子との約束を破らない為にも下手を打つわけにはいかない。
しつこく追求されたらどうしようと思ったが、お兄ちゃんは興味なさそうに「ふーん」と言っただけだった。
「ごちそうさま」
席を立つ。時計を確認すると遅刻ギリギリの時間。
私は急いで準備を済ませ、学校へと向かった。
◇ ◇ ◇
「……よし」
すっかりと日が暮れて、辺りが闇に沈む頃。
既に夕食を済ませた私は、今か今かと約束の時間を待っていた。
コチコチと一定のビートを刻む時計の秒針。
それとは裏腹に、私の心臓は一秒毎にペースを上げる。
じっとしているとおかしくなりそうだった。
「ん……あー」
歌でもうたって誤魔化そうとする。三秒でやめた。
火照った思考は短絡的で、冷静になるという選択肢を選ばない、選べない。
結局私が選んだ選択肢は、外へ飛び出す事だった。
奥の部屋でテレビを見ているお母さんに気付かれないよう、出来るだけ静かに玄関を抜けて外に出る。見上げると空には、昨日と同じ満月が絢爛たる輝きを放っていた。
方々から聞こえる虫たちの合唱は、夏という季節を物語っている。
しばらくして、昨日の川辺に到着した。
薄暗い闇の中に佇む、黒い少女のシルエット。
月光に照らされて輝く様は、昨日のソレよりも神々しくて……私の思考からは、一切の言語が抜け落ちた。
気付いて欲しくって声をかけようとするのだけれど、私から発せられた言葉は、言葉になる前に雲散する。
いや、そもそもこんな時に使うべき言の葉自体が思いつかない。
どうすることも出来ない私は、彼女が気付いてくれるまでの三十秒を、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「こんばんは、今日は少し早いんですね」
にこっと笑って、彼女はそう言った。
「え、あ、うん」
欠落していた言葉が再生する。
「えっと……君も早い、ね」
って、ええ!?
自分から飛び出した言葉に絶句する。
いくらなんでも『君』はちょっとないだろ!
「いっ、今のナシ!」
手をブンブンと振って無かった事にしようとするけど、そんなことはお構いなしにクスクスと笑い出す少女。
顔が熱い。恥ずかしさで沸騰しそうだ。
うう、穴があったら入りたいよ……。
「立ち話しもなんですし、どうです? ちょっとそこまで」
少し涙目になりながら、彼女は土手下の原っぱを指差した。
今のダメージから立ち直りきれていない私は、ただ「うー」と答える。
それを肯定ととった彼女は勢い良く土手を駆け下りて行った。
「お姉さんも早く来てくださーい!」
やっぱり体に似合わない大きな声で、私を呼ぶ。
まだ少しだけ顔が赤いような気がしたけれど、構うもんかと駆け出した。
「足、速いんですね」
はぁはぁ息を切らしている私に、彼女はそう言った。
「っはぁ、はぁ……ふぅ……そうかな? 普通くらいだと思うけど」
呼吸を落ち着けて答える。
昔から運動は好きだったが悲しいかな、私の走る速さは人並みだ。
もう少し速かったのなら陸上部に入っていたかもしれない、なんて。
「少なくとも私よりは全然速いです」
川の中央を見つめながら、彼女は呟いた。
視線の先には、歪んだ月がゆらゆらと揺れている。
「そういえば、昨日よりもだいぶ早く来たみたいですけど……なにかあったんですか?」
「あー……んっと……」
咄嗟に答えられない。
まさか、アナタに会うのが楽しみで、じっとしていられなかったの……なんて言える訳もないし。
「私は……」
私が答えあぐねていると、代わりに少女が自答した。
「突然こんなこと言うの、あの、変かもしれないんですけど……」
言い辛いのか、彼女はそこで言葉を区切った。
一瞬だけ間を置いて、少女は顔をこちらに向ける。
その顔はさっきまでの私と同じで……湯気をたてそうな程に紅く染まっていた。その鮮やかさに思わずドキリとする。
不謹慎な私を見透かすような彼女の真っ直ぐな瞳。
二つの視線は、図らずとも絡み合う。
瞬間、彼女は口を開いた。
「私……お姉さんのこと好きになっちゃったかも……なんて……えへへ」
……。
「ちょ、お姉さん!」
ガシっと手を掴まれて、私は自分が倒れそうになったのだと気が付いた。
「ふぅ、危なかった……転んだら痛いんですよ?」
彼女は子供に言い聞かせる母親のように、私をたしなめる。
いや、そんな事より!
「その、好きって……意味、わかってる?」
先程と同様に視線を交えて、私は彼女に問うた。
「え、え、え? 好きって……あれ? わた、私、お姉さんと会うの楽しみで……だから今日はいつもより早く来て……は、初めてなんです……こんなふうに、誰かと会うのが待ち遠しいのって……この気持ち……こういうのを、その、好きって……ち、違ったのかな……私……」
しどろもどろに、少女はそう言った。
……なんだろう、この違和感は。
彼女は言った、私と会うのが待ち遠しいと。
私も思っていた、早く彼女に会いたいと。
二人は……私たちは、同じ事を考えていた。
でも何かが……決定的に違う。
私の胸に落ちる、墨汁のような黒い染み。
私は彼女が好き。彼女も私が好き。
でも、この好きって気持ちは、果たして同じと言えるのだろうか?
いや……そんな事、本当はどうだって良いのかもしれない。
本来ならば交わる事のない私たちの時間。
偶然が生んだ、刹那的な私たちの関係。
きっと私は、それがたまらなく怖いだけなんだ。
危うい均衡で保たれている私たちの関係。
出会ってたった一日の、私の初恋。
でもソレは叶わない願いなんかじゃなくって……。
いや、世間体ってヤツを考えたなら、これはきっと禁じられし背徳。
だけど、なにが真実なのかわからないこの世界で。
私が信じるこの気持ちは、きっと一番『ホントウ』に近い気がした。
だからこそ、私は言わなければいけない。
彼女の、いや、私たちのこの気持ちはきっと一過性で、だからもう会うのは止めようと。
世界から見たら私たちはちっぽけで……。
たとえ私たちが正しくっても、『社会』からは外れているから。
この関係は……長く続きえるものじゃない。
「はぁ……」
だからこそ、私は言わなければならない。
「いい? 好きって気持ちは……」
「私、間違ってますか?」
彼女の控えめな、けれど良く通る声が、私の言葉を遮った。
「こうやってお友達とお話しするのも……また明日会おうねって、笑顔で別れるのも……ううん、目と目を合わせるのだって……全部、ぜんぶ……初めての事だらけで……」
淡々と語る少女。
抑揚のない声には、彼女の悲痛な叫びが込められているような、そんな気がした。
「学校だって行けなくて……お父さんも、お母さんも……仕事ならしょうがないって、一人ぼっちで……」
家にはお手伝いさんがいるんですけど、必要な事しかお話ししてくれなくて……そう続けて、彼女の話しは終わった。
虫の声だけが辺りを満たす。
私は彼女に声をかけることが出来なかった。
何を言ったって結局はどうにもならないような、そんな気がしたから。
私は幸せだ。
裕福とは言えないけれど、食べるのに困るわけでもないし、友達だって人並みにはいる。
テストで一喜一憂したり、誰かと喧嘩をしたり……馬鹿な話しをしてはみんなで笑っている。
でも彼女にはソレが無い。
ありふれた「平凡」に満たされた私と違って、彼女にはなにもない。
その在り方は、ほとんど空洞に近いのだ。
空虚に満たされている、とも言えるだろう。
しかもそんな彼女を作ったのは、あろうことか彼女の両親で。
彼女はただ、唇を噛んで孤独に耐えてきた。
独りきりの家は、どんなに寂しかったのだろう。
その光景を想像する事すら出来ない。
だから私は口をつぐんだ。
安っぽい同情は、彼女を傷つけるだけだから。
私の事が好きだと言った。
私も彼女が好きだ。
でも、なんて答えて良いのかわからない。
何が正しいのか……わからない。
沈黙を破ったのは私ではなく、目の前の少女だった。
「明日……また会えませんか? 明日は……私の誕生日なんです……だから、もしかしたらお父さんとお母さんがお祝いしてくれるかも、なんて……えへへ」
少しだけ楽しそうに、彼女は言った。
でも、それ以上に……。
彼女の言葉からは、諦めが滲んでいた。
「去年も一昨年も……誰もお祝いしてくれなかったんですけど……きっと今年こそ……そうしたら、お姉さんも祝ってくれますか?」
「……う、うん! 任せて、プレゼントだって用意する」
「プレゼント、ですか? やったぁ!楽しみにしてますね!」
そう言った少女に、先程までの陰鬱な様子はない。
無理をしているのが、易々とわかった。
今にも崩れてしまいそうな不確かさ。
きっと本当は、泣き出してしまいたいのだ。
苦しいよ、辛いよって……誰かに打ち明けたくて。
精一杯の強がりで笑ってみせる。
そんな彼女に……私がしてあげられること、そんなにないかもしれないけど。
まるで昔からの友達みたいに、当たり前に。
誕生日おめでとうって、笑顔で言ってあげることくらいは、許されるはずだ。
「それじゃあ、また明日! 忘れちゃ駄目ですよ」
手を振って駆けて行く。
私も手を振って答えた。
私が彼女と出会ってから、二日目の出来事。
◇ ◇ ◇
「ありがとうございましたー」
バイト店員の元気な声。
微妙に反応の悪い自動ドアを抜けて、私は日の光の下へとその身を晒した。
「うーん」
あの子へのプレゼント、これで良かったかな?
右手の中に納まっているソレへと目線を落として、私は少々考えた。
「はぁ、やっぱ私ってセンスないかも」
もう少し気の利いた物でも用意できれば良かったのだが、結局私が購入したのはコバルトブルーの小さな目覚まし時計。
見かけは小さいけれど音量は大きくて、朝に弱い人も安心! というキャッチフレーズに惹かれて思わず買ってしまった。デザインよりも実用性重視なのが私らしい。
って、使うのは私じゃなくてあの子だろ!
うー、私のばか。
とは言っても、買ってしまったからにはどうしようもない訳で。
小さく溜息を吐いて、私はトボトボ歩き出した。
◇ ◇ ◇
夜の帳が下りる頃。
今日で三回目になる夜歩きへと出かけた。
虫の大合唱を聞きながら、例によって私は無人の道を歩く。
少しだけ蒸し暑いのは、きっと夏だからだろう。
Tシャツの裾をパタパタとやりながら歩いていると、面白い物を見つけた。
笹に飾られた短冊。
「そっか、今日は……」
七夕だ。
七月七日生まれなんて、なんかカッコいいな。
川原で佇む彼女はさしずめ織姫といったところか……。
うん、イメージピッタリ。
「って、ちょっと待て」
じゃあアレか? 自分で言うのもなんだけど私は彦星か?
「う〜ん、イメージピッタリ」
たはは、と自嘲気味に笑って再び歩き出す。
私を待っていてくれるであろう織姫のもとへ。
◇ ◇ ◇
土手へと到着した。
私は辺りをキョロキョロと見回す。
「あれ……?」
少女の姿が見当たらない。
「うーん、まだ来てないのかなぁ」
トボトボと土手沿いに歩いてみる。
すると、昨日話しをした原っぱに彼女の姿を見つけた。
大急ぎで土手を駆け下りる。
私に気付いた彼女が、こちらへと振り向いた。
「はぁ……はぁ……ふぅ……こんばん……」
は、と続けようとして、私は言葉を飲み込んだ。
「……」
なんだ? なにかおかしい。
「こんばんは、お姉さん」
やや遅れて少女はそう言った。
その顔に浮かべた笑顔に違和感を覚える。
「どうか……しましたか?」
抑揚の無い声で少女が問うた。
精巧に作られた人形の様な微笑み。
そんな微笑みの中、その瞳だけが笑っていない。
「あなた……泣いていたでしょう」
「ッ!」
少女は驚いた風であったが、その表情を崩すことはなかった。
「な、何を……」
「だって、目が真っ赤だよ」
一歩、少女に近づく。
「こ、来ないでください!」
拒絶の言葉。
私はソレを無視して、さらに一歩近づいた。
「ねぇ……何があったの?」
距離を詰めながら、出来るだけ優しい口調で尋ねた。
彼女は私から逃れるように、無言のままあとずさる。
「きゃっ」
どすんと、彼女は尻餅をついた。
足元の見えない暗闇で、しかも後ろ向きに歩いていたのだ。それは必然と言える。
と、同時に彼女の手からビンの様なモノが飛び出した。
「あっ」
慌てて拾おうとする彼女より早く、私がソレを拾いあげる。
そして私は驚愕した。
「あなた、何をしようとしていたの!」
ビンのラベルには睡眠薬と書かれていた。
「……」
沈黙。
下を向いた視線。彼女はピクリとも動かない。
「ねぇ……」
彼女はピクリとも動かない。
「何が……」
彼女は……。
「何が、あったの?」
彼女は泣いていた。
「今日……私……」
ポツリポツリと、小雨の様な言葉が漏れる。
「お父さんも……お母さんも……私に……」
―――邪魔だ、って。
「ッく!」
頭の中がふっと冷たくなって、でも沸騰していく。
彼女の境遇に、あるいはソレを聞いて何も出来ない自分に、言葉に出来ないくらいの怒りを感じた。
「なんで……なんで……」
彼女は自問していた。
「私……何か悪いこと、しちゃったかなぁ」
「私……もう、生きていたくない……生きていたくないよ」
堰を切った。
もともと限界だったのだろう。
小さな器に、精一杯溜め込んで……。
溜め込んで溜め込んで……その重さで自分が苦しくなっても。
誰も助けてくれなくっても、歯を食いしばって我慢して。
自分の為、じゃない。
本来ならば、そんな彼女を救う両親の為。
だからこれは当然の権利なんだ。
彼女が『死』に救いを求めたのなら、誰もソレを止める事は出来ない。
孤独な彼女を救う筈の両親ですら、彼女を救えなかったのだから。
「うわぁああああああ」
泣いていた。
力一杯に、大声で。
この上なく無様に、だけど比較するモノも無いくらい美しい。
ああ、これはきっと、命の音。
此処にいるよ、此処にいるよって。
独りぼっちの彼女が、誰かに認めて欲しくて。
私も生きているよって、認めて欲しくて。
よく頑張ったねって、頭を撫でて欲しくて……。
必死に出した―――産声。
「うわぁあああああああああ」
泣いていた。
夜空に届くくらいに、泣いていた。
せめて、それくらいは許されるだろうと。
大きな声で泣いていた。
「……」
止まった様な世界。
泣き声だけが満たす空間。
誰にも止められない彼女を、私だけが止められる。
だって、私は……。
今まで孤独だった彼女に出来た、友達なのだから。
いや、違う。
私は彼女の恋人にでも家族にでも、姉妹にだってなれる。
彼女が望むなら、なんにだってなってやる。
現実的には不可能なのかもしれない―――
世間体ってヤツを考えたら絶対に出来ないのかもしれない。
私たちはちっぽけだ。
どんなに私たちが正しくても『社会』の中からは外れていて。
異端者と謗りを受けるのかもしれない。
だけど、なにが真実なのかわからないこの世界で。
私が信じるこの気持ちは、きっと一番『ホントウ』に近い気がするから。
だから信じていたい。
例え私たちが間違っていたとしても。
―――信じていたいんだ。
「……ぁ」
泣き続けている彼女を、私はギュッと抱きしめた。
もう泣かなくてもいいんだよ、と。
孤独に疲れた彼女を、私はギュッと抱きしめた。
言葉は要らない気がした。
心が溢れた小さな彼女を、私はギュッと抱きしめた。
もう独りじゃないんだよ、と。
「あ……ぁ」
そうして暫く抱きしめあって、私は用意していたモノを取り出した。
「……ほい、プレゼント」
泣きはらしてグシャグシャになった顔のまま、彼女はソレを受け取った。
「あー、中身は期待しないで……私、センスないから」
「……」
無言のまま、彼女は私の顔を見上げる。
開けていい? の仕草と勝手に解釈した私は「うん、開けてみて」と答えた。
ぎこちない手つきでラッピングを外すと、中から現れるコバルトブルーの小さな目覚まし時計。
見かけは小さいけれど音量は大きい、私らしい実用性重視の選択。
なんだか、彼女に似ている気がした。
「うん、その時計は織姫二号と名づけよう!」
「? どうして……ですか?」
怪訝そうな少女。
私は、なんとなくって答えた。
「もし君が睡眠薬を飲んじゃってもしっかり起こしてくれる、特別仕様だよ」
「でも、コレ買ったのって今日のお昼ですよね? どうして睡眠薬のこと……」
「私は未来予知が出来るのだ!」
えっへんと胸を張ってみる。
「あははは、やっぱりお姉さんって面白いです」
真っ赤に腫れた目。だけどその顔には笑顔が浮かんでいた。
う……。
いかん、やっぱり可愛い。
「あー……実は……」
「……?」
「私は魔法使いでもあるから、睡眠薬に頼らなきゃ眠れない不眠症の人を治す魔法をし、知ってます!」
「べ、別に私は不眠症じゃ」
自称未来予知能力者兼魔法使いの私にウソは通用しません!
「じゃあ今日は特別サービスで魔法を見せてあげる」
「もぉ、私不眠症じゃないのにー」
ちょっとだけ不貞腐れる彼女。可愛い。
「良いから良いから。さ、目を閉じてくださいな」
「はーい」
しぶしぶといった様子でまぶたを閉じる少女。
ゴクリ……。
一瞬だけ夜空を見上げる。
爛と輝くお月様。
あぁ、やっぱりか。
美しい満月を見上げ、私は「ほぅ」と息を漏らした。
古くから「月は人を狂わせる」と言う。
妖艶な光がまるで媚薬の様に、人の正気を……あー! もう我慢できない!
吐息のかかるくらいに顔を近づけて―――
―――私は彼女にキスをした。
「っ!?」
驚いて目を開ける彼女。
「こ、これで今夜もバッチリ……そ、それじゃ私はそろそろ帰るから……良い夢見てね!」
呆気にとられている彼女をよそにガーッとまくし立てると、私は真っ赤になった顔を隠すように
その場から立ち去った。
◇ ◇ ◇
体が熱い。
心臓も悲鳴を上げている。
だけど私は笑ってた。
きっと彼女も……いや、これは想像だけど。
「ふぅ……」
流石に限界なので少しだけ歩く事にする。
夜空を見上げると、やっぱりお月様が綺麗だった。
「あ! 天の川!」
キラキラと輝く天の川を見つけた。
彦星と織姫は無事に会えたのかな……なんて、ガラにもなくロマンティックな事を考える。
一年に一度しか会えないなんて可哀相だなと少しだけ同情した後、私は夜空にむかって大声で惚気た。
「どうだ! 私の彼女は可愛いだろう?」と。
いや、彼女ってワケじゃないんだけどね。
了
興味を持ってくれた方、ありがとうございます。
ほとんど思いつきで……というか、趣味で書きましたので、とんでもない作品になってしまいました。ご縁がありましたら、また読んでやってください。