その5 不安に揺らぐ瞳
「今日はなんか疲れた」
はじめての見舞客であるエイトの訪問。その彼からされた、俄かには信じられない話の数々。
「感情を制御するクスリ…、ねぇ」
本当にそんなものがあるんだろうか。考え出すとキリがない。
寝苦しかった。完璧に管理されたはずの部屋さえも居心地が悪く感じて、ベランダへと続く大きな窓を開けた。
月がとても綺麗な夜だった。
エイトに教えてもらった。最近じゃ、どこへ行ってもこんな綺麗な月や星が拝めるのだという。
テクノロジーの進化、進んだ機械化と小型化は、環境問題すらも解決してしまったらしい。
病室から見下ろす街の明かりは、建物の形こそ違えど、100年前と大差ないようにしか思えなかった。
「感情の制御された、世界」
もし、俺の今のこの凪いだ心が、クスリで制御された故のことなのだとしたら。
この心を解き放った時、一体どうなってしまうのだろうか。
掌に握りこんだカプセルがキュッと小さな音を立てた。
エイトと話した時、トレイに載っていた薬のうちの一つ。CSDSという名のクスリ。
これだけは、飲む気になれなかった。
自分の本当の心を知りたいと思ったから。
急に視界が潤んだ。頬を生暖かい何かが伝って濡らしていく。
これは、なんだっけ。…そう、涙。なみだ、涙だ。
こらきれずに顔を覆ってしゃがみこむ。涙が、次から次に溢れて止まらない。
思い出した。記憶が、次々に溢れていく。
——あの日は、何の変哲もない夏の日だった。
母さんはあの日も小言ばかりで、でも最後には『行ってらっしゃい』と笑顔で手を振っていた。
父さんはあの日も仕事で忙しそうで、すれ違いになってしまった。それでも『今年の夏は二人旅でもするか』と嬉しそうに言っていた。
『野郎2人でなんて、色気ねぇな』なんて口で言ってはいたけど、ヒデと行く祭りをそれでも俺はとても楽しみにしていた。
今はもう戻れない、俺が失った遠い夏の日。
他にもたくさん、いろんな人と思い出を作っていくはずだった。
もう誰もいない。誰にも会えない。
そりゃ、誰だっていつかは死ぬ。いなくなる。会えなくなる。
だけどそれはもっと先の未来だったハズだ。
こんな唐突に、何の準備もなく。何もわからない世界でひとりぼっち。
「俺を、おいていかないでくれ」
もっと早く目覚めたかった。どれだけ悔いても、もうどうしようもない。
「父さん、母さん。俺は」
あなた達にとってどんな息子でしたか。いい息子をやれていましたか。
いつか聞きたかった、その言葉。その相手は、もういない。
その夜は一睡もできず、ただずっと泣いていた。
目覚めてから初めての、100年と3か月振りの感情の吐露だった。
「目が、真っ赤です」
次の日。病室に現れたエイトは驚くでもなく、単調な事実を述べるようにつぶやいた。
昨日は気にならなかった。その口ぶりに、ゾワリと毛が逆立つような違和感を覚えた。
感情が無い。それがこんなにも人に恐怖を抱かせるとは。
「昨日は、クスリを飲まなかったんだ。そしたら、いろいろと思い出した」
悲しかったよ。
ぽつりと言葉を落とす。エイトは何も言わず、黙ったままだ。
「…なあ、エイト。クスリが開発されて、普及して、それで犯罪は少なくなったのか?」
「ええ。今や日本の犯罪発生件数は、100年前の10分の1です。競争心、憎悪、怒り、恐怖。そう言った感情を制御した今では、罪を犯す理由が無いんですよ。競争心も薄れていますから、この国は資本主義とは名ばかりの社会主義国と化しています。なので、秀でることも劣ることもなく、人々は平凡に生きるようになりました」
「平凡、に。ねぇ」
無機質な箱のような病室をぐるりと見回す。最初目覚めた時はこの部屋に違和感を覚えて恐怖したというのに、慣れとは恐ろしいものだ。今では何とも思わない。
人々もそうなのだろうか。
『平凡』という生ぬるい言葉に溶かされ、心を制御して、自発的に考えることもなく、言葉の上だけの『幸せ』を享受する。
そうだとしたら、この世界はとても貧しい。
「この時代は、間違った方向に進んでいる気がする…」
うまく説明できない。どう言えばいいかわからない。ただ心の奥深いところで警報がなるような、恐怖。
このままではいけない。
「ヒトミさんも、そう思いますか?」
エイトは、少しだけ目を大きくして問いかけてきた。
期待と不安がないまぜになったような、瞳の色。それは精巧にできた人形のような彼が見せた、ほとんど初めての感情のようなものだった。
「俺の父は、クスリに否定的なんです。盲目的にクスリを信用する今の世の中に、父はとても危機感を覚えているようなんです。今の、ヒトミさんのように」
驚いた。この世界に違和感を覚えている人が、俺の他にいたのか。
「『クスリに依存するな』。それが父の口癖でした。副作用についても耳が痛くなるほど聞かされました。今まで真面目に聞いてこなかった話が、とても重要だと知ったのはつい最近のことでした」
エイトは縋り付くような目で俺を見た。
「ヒトミさん。どうか俺に協力してはくれませんか」
その目はまるで泣きそうな色ににじんでいた。