その4 不可思議なセカイ
「さっきのアンドロイドが代表的ですが、ヒトミさんが以前生きていた時代よりずいぶん機械化が進みました。特に日本ではその進歩が著しく、今や世界のトップです。加えて、様々なところでデジタル化・小型化が進み、そちらの技術の高さでも日本は高い評価を得ています」
ほら、これもその例の一つです。
そう言って彼は腕のブレスレットのような機械を指した。改めて見てみると腕にぴったりと嵌められたそれは、ブレスレットというには簡素すぎた。
「これは一定の年齢になると支給される身分証明のようなものです。これは通信機器や電子マネーの役割も持ち合わせているので、これ無しではこの時代を生きることができません。硬貨や紙幣も一応流通してはいますが、最近では使えないところも増えていますし」
「なるほど。そう言えばこの辺に…」
ベッド脇の机の引き出しをごそごそと漁れば、目当てのものはすぐに見つかった。エイトが着けているものによく似た腕輪状の機械。
「使い方がよくわからなかったが、便利なものなんだな」
さすが、100年たつと違うな。
「ええ、ですがこの時代にもっとも特徴的なのはもっと別の分野の進歩なんです」
「別の?」
機械化以外に、何か変わったところがあっただろうか。そう言えば、俺が受けた治療は100年前のものよりも優れていたが、それだって機械化ほど進んでいるとは思えない。100年という時間を考えれば、進歩の度合いは極めて妥当なものだ。
「それは薬の分野です。この100年の間に薬学の研究はすさまじい進歩を遂げました。そしてヒトは長年の夢を一つ叶えたんです」
「夢…?薬って、治療目的のものではないのか?」
トレイの上の薬に目をやる。100年前と形状はさほど変わらないように思えるそれらの、一体どこが変わったというのだろうか。
「人類がかなえた夢。それは薬による感情・欲求の制御です」
「感情の、せいぎょ?」
「ええ、飲むことで激しい感情や強すぎる欲求を抑える薬が発明されたんです」
さっき彼がつまんだカプセルが、トレイの上で急に存在感を増してくる。
まさか、そんなことが。
「『7つの原罪』の話を聞いたことはありませんか?傲慢・貪欲・嫉妬・憤怒・貪食・色欲・怠惰からなる、キリスト教カトリック教会が定めた人間の罪の源のことです」
「ダンテの『神曲』煉獄編にも出てきたな、それ。死者が楽園にいたるまでに悔い改める生前の罪、って題目で」
漫画に影響されて、面白がって読んだ知識がここで役立つとは。
「今から100年ほど前、とある研究者がその『7つの原罪』に注目しました。彼曰く、『この7つの原罪を生み出す欲望や感情を抑制すれば、ヒトは幸せになれる』。その仮説に賛同した日本政府の協力を得て、生み出されたのがこのカプセルです。正式名称は『Control of Seven Deadly Sins』略して『CSDS』。世間一般には単に『クスリ』と呼ばれています」
「俺の生きていた時代から、そんな計画が始まっていたのか。それにしても、日本政府はよくそんな夢みたいな話に賛同したな」
エイトは、俺の言葉に首をすくめた。
「父からの受け売りなんですが、政府は犯罪率の高さに相当頭を悩ませていたそうです。そのため、雲をつかむような話にも飛びつかざるを得なかった、と」
話を続けます。
エイトは姿勢をただす。
「最初は犯罪者に処方されていましたが、だんだんその効果が立証され始めると徐々に世間一般にもその噂は広がり始めました。元来、人間は激しすぎる感情を避けたがる傾向があります。犯罪を未然に防ぐ効果を期待できる、との政府の後押しもあり今では非常に安価で広く出回るようになりました。頻度や量の差はあれど、今では誰もが日常的に服用しています」
ほら、とエイトがポケットからケースを取り出して開く。そこにはトレイの上にあるのと似たカプセルがあった。
「そんな中、あなたは目覚めました。感情をむき出しにするあなたの存在は、この時代の日本にとってイレギュラーなんです。だから身元がきちんとした後見人をつけ、少々乱暴でもクスリを勝手に処方することにした。政府はあなたをとても怖がっています」
言われて、目覚めて最初に出会った看護師の反応を思い出した。あの時彼女が眉を顰めたのは、俺の感情を恐れたからなのかもしれない。
「…じゃあ、あれか。俺は今政府がマークする危険人物ってことか?」
笑えるな。
「まあ、そう言うことになりますね。とはいっても、表面的に不自由はないはずです。不自由ないように、いろいろとお手伝いしますし」
「そうか。ありがとう。世話になる」
話していたら、外はだんだん夕暮れになってきていた。随分長い時間話をしていたようだ。
エイトもそれに気づいたらしく、『そろそろ帰ります』と言い出した。
「また、明日も来ます」
そう言いおいて出ていった彼の瞳は、無表情で。それでいて何かにすがるようにギラリと光を放っていた。