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前世編・ひょっとして。でも気のせいのはず・1

 璃音の前世編。やはり何処となく暗いので、苦手な方は注意して下さい。







「あ……これって」


 慣れ親しんだ事務所の棚の前を陣取りながら、ファイルを1枚1枚捲っていくと、違和感を感じて手を止めた。ファイルされた書類の束の中に、明らかにファイルされていない、穴さえも開いていない書類が1枚。見慣れないもので、タイトルを見る限り、見れる人物は限られているだろう。


 自分の前にこの棚の前に立ったのは誰だっただろうか。事務所を訪れた人物の顔を思い出しながら、じっくりと思考にふける。


 誰だろう。腕を組み、目をゆっくりと閉じてみた。今開いているファイルの書類自体、誰もが見るものではない。そして挟まっていたA4サイズの書類1枚の内容。両方を持つ人間は誰かと思い浮かべてみれば、1人の姿しか思い浮かばない。このファイルを開き、そして忘れ物の書類の関係者。そうなると、自分の思い浮かべた人物で間違いないだろうと結論付け、その忘れ物を封筒に入れて事務所を出る。


 彼で間違いはないだろうと思うものの、彼ではなかった場合はこの書類を押し付けてしまおう。彼の関係者である事は間違いないのだから。


 そう考えると、見つけてしまった時は面倒でどうしようかと思っていた書類だが、幾らか気楽になったなと暢気に考える。自分はしがない事務員だが、彼は違う。若いながらも上司からの覚えは良く、仕事も出来て美形の将来有望。会社内、外問わず女性たちからの熱視線を一身に受ける割には気さくな性格で、同性からも好かれているとまさしくパーフェクトという言葉が相応しい人物に思えた。


 自分もそこそこの立場だが、彼みたいな人との縁はない。仕事が終われば自宅に戻り、適当にシャワーとご飯をとった後はゲーム三昧。重度のオタクとは違うが、知らない、興味のない人間から見れば、変わらないだろう。自分はこれで良い。1人が気楽だ。


 今更そのスタンスを崩すつもりもないし、これから崩す事はないだろう。


 コツコツと足音を響かせて、長い通路を歩いていく。自分の影が伸び、行く先を翳らせる。薄暗い。十分な電灯はついているはずなのに、奈落に繋がっているかのような薄ら寒さを感じさせる暗闇に、何かの影が重なる。


「やぁ、──さん」


 甘さを含んだ声は彼で間違いない。通路の曲がり角、丁度彼が歩いてきていたらしい。


「お疲れ様。──さん。丁度良かったです」


 封筒を彼の胸辺りに押し付けるようにして渡せば、彼は中身がわかったのか、お礼の言葉を口にする。


「事務所にあったんだ」


 その口ぶりから、探していたのかとも思ったが、それならば事務所に探しにくればいいのにと、文句の1つでも言いたくはなったが、押しつぶして喉の奥へと飲み込む。


 仕事の合間の息抜き程度の散歩だと、そう思えば良い。口角を上げてにやりと笑う彼を見れば、普段の人当たりの良い彼は何処にいったのか。まるで猛禽類のような凶暴な眼差し。自分はその獲物になったかのような、居心地の悪さを覚えて、視線を逸らしながら身を翻す。


  私と彼が言葉を交わすのは、特に珍しいわけではない。この会社に入社して8年。彼は3年の5才差。自分は事務員として、それなりの経験を積んできた。そんな私と彼の接点は、多くも少なくもない。


 関係も、可もなく不可もなく。


 地味で埋没してしまう自分との接点はこんなものだ。再び、カツカツと踵を響かせ、颯爽とその場を立ち去る私のスーツの襟を掴まれ、喉が締め付けられる。


 ぐぇ、と間抜けな声が漏れそうになるが、必死に飲み込み、何事かと彼を睨み付けた。


「あー。だって折角会えたのに、これだけって味気なくない?」


「……」


 口を一文字にしながら、内心はハァ?と舌打ちをしたいが懸命に抑えながらも、睨み付けたまま彼を視界の中心に置く。そして軽く言われた言葉に意味不明だと思いながら、次の言葉を待つ。


 1秒。2秒。3秒……。


 ……4秒。5秒……。


「帰ります」


 睨み付けていた視線を彼から外し、再び足を持ち上げる。その動作が些か乱暴になってしまったが仕方がない。一体彼は何がしたかっというのだろうか。全く意味不明だ。


 カツン、と踵が鳴った。


 今日は何度その音を響かせたのか。苛立ちにも似た内側から溢れ出しそうになる感情を持て余す。彼もわからにが、自分もわからない。こんな意味不明な感情は疲れるだけで、正直な所、水で流せてしまえばいいのに、なんて思ってしまう。それが出来たらどんなに楽だろうか。


「怒らせちゃったらごめんね。だって──さん。滅多に俺と話してくれないし」


 軽い言葉に、尚更苛立ちが積もる。唇を尖らせるその様に、お前は子供かと頭を鷲掴みしたくなるが、自分もそれなりに大人になった。この程度で一々怒っていては、キリがない。思い起こせば、彼はいつもこうだった。


 何気ない顔をして、自分の心の隙間を縫うように入り込んでくる。正直、堪らない気持ちがふわりと底が湧き上がってきて、1人でそわそわと、というのか落ち着かない。自分が空回りしている感覚に、情けないやら泣きたいやら、どうしようもなくなってしまう。けれど、そんな気持ちには蓋をした。


 人は、誰かと。大切な人と共に居れば笑みを浮かべてくれる。堪え切れない、心から溢れだした、優しい微笑み。それを自然に浮かべてくれる。見ているこちらまで幸せになれるような、温かい笑み。


 だが、それは私ではない。


 私では、人を幸せにする事は出来ないから。そんな言葉が脳裏に浮かんだかと思えば、自分の意思とは無関係に身体を支配する。何処か麻痺したかのような、痺れが全身を駆け巡った。


 それは私から思考を、身体の支配を、奪っていく。あぁ、これでいいんだ。唐突ともいえる程、瞬時に自分を支配した。恐怖も感じる程、心が冷たくなると同時に、全身を巡る安堵にホッと息を漏らす。


 これでいいんだと、奥底から声が響いた気がした。


 そう思えば、自然と笑みが溢れるのを止めず、コツンと足を鳴らした。先ほどの苛立ちが嘘のように、心が軽くなる。




 もう、何も気にはならなかった。







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