抜け落ちたモノ・1
視界が揺れる。
ゆらゆらと揺れて。
目の前がぶれるような気がして、開いていた目をギュッと閉じた。
こんな日は眠ってしまおう。
そして明日からは、いつもに戻るんだ。
眉間に皺が出来る程、強く閉じられた瞳。そこに、誰かの指が触れた。
誰だろう。
純夜かな? 龍貴かな?
それとも、2人かもしれない。
甘い甘い2人は、いつも私を甘やかしてくれる。
こんなお姉ちゃんでごめんね。
明日からはしっかりするから、今日だけは許してね。
原作璃音には遠く及ばないけど、2人の幸せを見守るから。そんな私の決意が伝わったのかどうか。大丈夫だよと言わんばかりに、頭を撫でられる手を感じる。
ゆっくりと、慈しむように。
本当に2人は私を甘やかす。
だから弟離れが出来ない。本当はもっと弟離れをして、見守らなきゃいけないのに。それなのに、2人の好意に甘えて、私は囲まれながら表情を和らげる。
こんな私でもいいと、言われているようで。
それが嬉しくて。
甘えてしまう。
「大丈夫だよ。璃音」
「璃音。無理するな」
あぁ、優しげに響く2人の声。
手を伸ばせば、その手を包まれる。
右手は純夜。左手は龍貴。
純夜の指先の方が、龍貴よりも細いのだ。
だからどちらがどちら、とも見なくてもわかる。
こんなに甘やかしてどうするのか。いつもいつも思う。2人は甘やかし過ぎなのだ。それをわかっていて、甘えてしまう私に原因があるんだろうけど。
わかっているんだけど、差し伸べられた手を握ってしまう。
遠い昔。
遠すぎる前。
霞んで見えなくなりおぼろげになってしまった、懐かしい記憶。
いつだろう。
子供の頃なのだろうか。
閉じられた視界の裏に写る世界。
懐かしいのに、遠い。
手を伸ばすのに、触れられない。
この距離がもどかしくて、どうしようもないのに、思い出せない。
璃音、と優しく響く声。
これは純夜と龍貴の声だとわかるのに、それに応える余裕のない私が見ているものは、なんなのだろう。璃音じゃない。璃音だ。色々な思考がごちゃ混ぜになりながら、私を侵食していく。
璃音と呼ばれ、答えなきゃ。
心配をかけると頭の片隅では理解出来ているのに、私の欲しい声はこれじゃない。
そんな言葉が投げかけられた。
思い出して。
忘れて。
相反する想い。
一体なんなのだろうか。この感情は。
両手に感じるぬくもりが心地よくて、そこに落ちてしまえば楽なのに。そんな言葉を思い浮かべながら、強く閉じられた瞳に涙が滲む。
あぁ、本当に弱ってる。
何でこんなに弱るんだろうか。
この世界で生きてきて、ここまで弱ったのは初めてだ。
記憶を思い出して絶望して。そうしてこの世界で生きていく覚悟を決めたのは、忘れる程遠い昔の事で。今更それが揺らぐものではないのにと呟くが、音にならずに消えていく。
璃音、璃音と純夜の声が聞こえた。
大丈夫だよと、私の涙を拭ってくれる。本当に私をここまで甘やかしてどうするのか。
「純君。甘やかしすぎだよ」
ほんの少しだけ目を開ければ、私の右手を両手で包み込んでいる純夜の姿が見えた。
左手は、龍貴が包み込んでくれている。
本当に甘やかし過ぎだよ。ぱくぱくと動くだけに音にならない唇。
それを読み取ったのか、純夜が顔をほころばせる。
「大丈夫だよ、璃音。俺たちがいるからね」
「あぁ、純夜の言うとおりだ。俺たちがいるぞ。1人になんかなれないから」
純夜と、龍貴の言葉。
「そんなに甘やかしてどうするの」
境界線が曖昧になる中、それさえも気付かずに温もりが上書きされていく。
あんなに近かった温もりが遠ざかり、別の温もりが私を満たしていく。何がそんなに悲しかったのか。それさえもわからなくなる程、2人の好意に甘えてしまう。
「璃音は特別」
「お前は甘えなさすぎ」
2人にほぼ同時に言われ、私は表情を和らげた。
もう涙は滲んではおらず、泣きたい程切なくて悲しかった感情は、脳裏の片隅へと追いやられていく。けれど、肝心の私はそれに気付けない。
こうして心を支配する焦燥感や悲しみが、少しずつ遠くへと消えていく。
それに気付けないまま、私は2人から向けられる甘さを含んだ感情に満たされる。
「体調はどう?」
純夜の心配そうな表情と声。
あぁ、最近ずっと心配をかけてばかりだ、と。駄目なお姉ちゃんになっている。自覚はあるのに、それに甘えてしまって包まれた手に頬を摺り寄せる。
温かい。
その温もりが心地よくて、私は表情を和らげた。
「大丈夫。さっきよりも凄くマシ」
というか、元気。
「いや。元気じゃないだろ。全く無理し過ぎ」
私の言葉に、龍貴が間髪いれずにつっこむ。
「元気なんだけど。精神的には」
「いや。それ一番駄目。無理してばたんってパターンだろ」
龍貴との言葉のやりとりが楽しくて、ついつい笑みが零れる。
確かに、身体は思うようには動かないけど、精神的には浮上して元気なんだけど。でも口に出せば心配をかけると思って黙っていると、どうやら純夜がそれを読み取ったらしい。
「璃音の無理、無茶をするパターンだから」
駄目押しのように言われ、頬を膨らませた私の頬をつつきながら、純夜が安堵したかのように笑みを浮かべた。
漸く笑ってくれた。
それにホッとする。
「やっぱ純君も龍君も、そっちの方がいいなぁ」
笑ってくれている方がいい。
再び訪れた、今度は穏やかなまどろみに身を預けながら、私は閉じてきた瞳に抗う事もせずに眠りへと誘われる。
2人がどんな表情をしているのか。
それを見ないまま、心地よい眠りに落ちた。




