怪我人・2
「璃音」
極上の笑みを浮かべながら、うっとりとするような優しい声音で純夜が私の名前を呼ぶ。その手に持たれているのはマグカップ。それを机の上に置かれるが、そこから漂うのは甘い香り。
私の鼻腔を擽る甘い香りはミルクと砂糖。ミルクティは疲れた時や甘いものを食べる時によく煎れる飲み物だったりする。
「ありがとう」
お礼を言ってからマグカップを手に取る。その時に視界に収まるのは白い手袋。押せば勿論痛いが、病院での治療のおかげで、普通に生活する分には何ら問題の程度には痛みを感じずに生活が出来ている──が、怪我をしてから純夜の過保護に磨きがかかったような気がするのは、私の気のせいではないはず。
姉さんではなく、璃音と名で呼ぶ。
時々それはあったが、あくまでも時々だった名前呼びは、いまや100%名前を呼んでくる。ふ
純夜の中でどんな状態で呼び方が変わるのかはわからないが、とりあえず名前で呼ばれる時の方が過保護な気がする。それは私の気のせいじゃないはずだ。
「うん。美味しい」
ミルクティを一口喉へと流し込む。
思わずもれた言葉だったけど、本当に美味しい。
いつもだったらグラスに煎れるアイスミルクティだけど、今は私の手を考慮してからなのか、マグカップが使われている。
持つ部分があるという事で、マグカップを使ったのだろう。
グラスを持てば、手袋が濡れる。だからマグカップで煎れた。理由はそんな所だろう。
「そう。良かった。璃音が煎れてくれた方が美味しいんだけどね。でも今は止めてね。心配だから」
でも紅茶を煎れるぐらいなら出来ると。と言おうとしていたのが見抜かれていたのか、先手を打たれてしまう。
どうしよう。
紅茶を煎れるのもとめられるぐらいに過保護になっている。元々そういう所はあったが、怪我をしてから拍車がかかったというか。
本当に心配をかけたらしい。
私が純夜の立場でもそうなるかもしれない。だから何も言わずに頷き、純夜に甘えさせてもらう。
「純君が煎れてくれた紅茶は美味しいよ。
私は大好き」
本音を口に出す。
純夜は私の煎れる飲み物の方が美味しいと言ってくれる。勿論嬉しいし、毎回準備するのも苦にはならない。でも、純夜の煎れてくれる紅茶が私の煎れたものより劣るという事は絶対にない。これは純夜の謙遜だと思う。
本当にすっごくすごく美味しいのだ。
絶妙な甘さ。甘すぎず。かといって甘みが足りていないわけではない、私にとっては丁度良い匙加減のミルクティ。
「うーん。美味しい」
無意識にもれた言葉に、純夜が嬉しそうに笑う。
うん。その笑顔も満点。すごく可愛い。流石主人公。その笑顔でイケメンたちが日々メロメロにされているんだね。
その気持ちはわかるよ。今だって私を魅了してやまない純夜の甘い甘い笑顔。私は攻略相手ではないけど、日々やられてしまっているし。うん。それは当然で仕方ないけどね。
可愛いから。
思考がドンドンと深みにはまっていくような気がするけど、全く問題ないね。だって純夜が可愛いのは事実でしかないし。
血は繋がっていないけど、仲良し姉弟だし。そう思うと自然と笑みが溢れる。心配させてしまい、過保護にさせてしまっているけど。
包帯が取れる頃には元に戻るだろうと思いながら、純夜がだしてくれたロールケーキをフォークで一口分取り、口の中へといれる。
ロールケーキも美味しい。
なんだろう、これ。心配をかけてしまったけど幸せ。
そんな事を思いながら、もう一口ロールケーキを口へと運ぶ。
食べるスピードを落とさずにいたら、もう1つのソファの前にもロールケーキとカフェオレを置く純夜。この組み合わせは龍貴かな。
純夜はコーヒー。龍貴はカフェオレ。私は紅茶。
気分による所が大きいけど、甘いものを食べる時の飲み物は大体こんな感じだったりする。
今度バリスタでも買おうかなぁ。
煎れたてのコーヒーは勿論大好きなんだけど、1杯分だけ煎れるのも楽だし。
本気で検討していると、玄関が開く音が聞こえた。
龍貴は合鍵を持っているからいつもの事だ。
私や純夜も龍貴の自宅の合鍵を持っているし。
お互いの家の鍵を持つ程度には、親しい間柄だ。
そういえば……これだけ仲がいいと、純夜と龍貴が付き合った後はどうだったんだろう。勿論、原作の璃音の事だけど、改めてそんな疑問が浮かぶ。
前はよく考えていたけど、最近はあまり考えないでいた。原作の璃音と、今の私は別な存在だと思っている。二人が付き合っても心の底から応援できる。苦しいなんて感情は全くない。
思い出しても参考程度にしかならないけど。
私が璃音として生まれたからには、ゲーム通りには進んでいないだろうし。
原作璃音と、璃音になってしまった私。
それだけでも随分違う。
原作璃音は龍貴が好きだったけど、エンディングでは璃音の事には触れられていなかった。
璃音は龍貴が好きだった。でも私は……。
ズキン、と頭が痛んだ。
なんだろう。これ。すごく痛い。
ありきたりな言葉だけど、頭が割れそうな程の痛みが襲い掛かってくる。痛い。でも表には出したくない。ただでさえ心配をかけているのに、これ以上心配をかけたくない。
そう思っているのに……。
「璃音。我慢しないで」
純夜の声が耳に届くと同時に身体に感じる浮遊感。
力強い腕──…龍貴だ。
「ベットまで運ぶぞ」
「俺は薬を用意する」
龍貴と純夜の声。
なるべく揺らさないようにと、優しく抱き上げられて運ばれる。
でも、今の私にそれを考える余裕はない。
痛い。苦しい。
──…悲しい。
どうしてそんなふうに突然思ってしまうのか。さっきまではミルクティとロールケーキで幸せいっぱいだったのに。
自分の思考の変化に、私自身がついていけないでいる。
私は一体何を思い出せないの?
何かが足りない。
それだけはわかるのに……。
肝心の何かまではわからない。
そう思ううちに、私の意識は闇へと呑み込まれていく。
最近こんな事が多いな、なんて最後に場違いな事を考えながら。




