怪我人・1
ずっとずっと走り続けた。
何かに追いかけられている気がして、とうの昔に限界を向かえている身体に鞭を打って足を動かし続けた。
捕まったら。
そう……捕まったら“また”死んでしまう。
私は2度目の人生をこの年で終わらせたくなんかない。
だから走り続けた。
死から逃げる為に。
その時、死から逃げる私の手を、誰かが掴んで引っ張ってくれた。
この指の長い、私よりも大きな手。
知ってる。
この手の主は私を助けてくれる。
そう思うと同時に、暗闇だった世界から引っ張り上げられた。眩しさに目を閉じ、次に目を開けた時には真っ白な天井に目が行く。
一瞬自分が何処にいるのかがわからなくなったけど、視線を左右に動かしてみると、ここが病室だという事がわかった。
どうやら気を失った後に誰かに助けられたらしい。そうなると、猫はどうなったんだろうか。それが知りたくて、痛む身体を横に向けて起き上がろうと両腕に力を込めてみたら痛みが走った。
そういえば怪我をしていたんだっけか。あまり意識をしていなかったけど、あれは夢じゃなくて現実だったらしい。
「璃音っ」
冷静に分析をしていたら、聞きなれた声が耳に届く。それは何処か切羽詰ったような、そんな声だった。
泣きそうな純夜の表情と声。相当心配をかけたらしい。
「純君」
大丈夫だよ、と伝えたくて笑みを作った。
うん、大丈夫。
私は生きてる。
生きていられる。
そう思えたから、心の奥底からの笑みを浮かべられた。
私とは対照的な純夜の表情だったけど、私が笑みを浮かべたからなのか、ぎこちなかったけれど笑みを向けてくれた。
「心配かけてごめんね。私は大丈夫だよ」
大丈夫。
生きているよ。
多少は身体は痛いけど。
ひょっとしたら痛み止めが効いているから、多少で済んでいるのかもしれない。それを考えると憂鬱だったけど、今は純夜を落ち着かせる方が先だと思うから、腕を伸ばして純夜の頭を撫でた。
私は大丈夫だから。
裾から覗く包帯は痛々しく見えるのかもしれないけど、5本の指は無事だったらしい事に安堵する。
「ん……無事……で良かった。本当に……本当に……」
私の手を自分の両手で優しく包み込み、純夜は顔を伏せた。まるで泣いているかのような動作に焦りが生まれるが、私は大丈夫という事しか出来ない。腕はなんとか動くのだが、身体が非常にだるく、動かす為には体力を使いすぎる。
その動かせる手も純夜の両手で包み込まれていて、ある意味私の動きは封じ込まれているといってもいいのかもしれない。
「 」
その時、純夜が何かを呟いた。小さな。小さな声。
あまりに小さな声で聞き取る事は出来なかったけど、無事でよかった、とかそういう言葉だろう。
心配をかけているが、恐らく怪我が完治するまでずっとかけ続けるのかもしれない。そんなふうに考えていたら、いつの間にか眠りへと誘われていた。
傷ついた身体が睡眠を欲しているらしい。
純夜に大丈夫だよと言わなきゃいけないのに、眠りへの欲求はまるで留まる事を知らないかのように私を眠りへと落ちていく。
だから気付けなかった。
純夜の瞳に暗い影が浮かんでいた事に。
私を見つめる瞳が違っていた事に。
全く気付く事はなかった。
再び眠りに落ちた先で、私は懐かしい光景を見ていた。
笑う私と、笑う彼。
彼が夢に出てきたのは初めてだった。そう思いながらそれを直ぐに否定した。過去の。前世の夢を見たのは初めてだった。この世界で生きる事に精一杯だったのかもしれない。
彼は、異性の、すごく仲の良い友達だった。本当の気持ちに気付かないふりをして、居心地の良い“友達”という関係を続けていた。
彼は少し人見知りな所がある。
だからゲームの話題から知り合った私がそれに気付いたのは、苦笑交じりに彼が言った言葉から。
特に興味がなかった私の反応は淡白なもので、彼はそれに驚いたらしい。私との関係が変わるわけじゃない。
そう言えば、彼は安心したとばかりに笑った。
知っているよ。長い前髪と眼鏡の奥に隠されたものが、ものすごく整っているという事には。
でも、私と彼は趣味で知り合って、それが楽しくて友達になったのだ。整った容姿は後からついてきた付属品のようなもの。それを知る前から、私の心は揺れていた。だから、それは所詮おまけでしかない。それを正直に言えば、彼は嬉しそうに。本当に嬉しそうに笑っていたけど。そんな彼を見て、容姿の整った人は大変な事もあるんだな。
なんて他人事のように思っただけだった。
でも懐かしい。
今まで思い出さなかった彼。
久しぶりに思い出せば、やはり彼と共有していた時間は楽しく、心が温まる。
もう夢でしか見る事の出来ない彼。
そしてふと思った。
この世界で私に恋愛は可能なのだろうかと。
だって私は、彼を忘れないでいた。
久しぶりに思い出したとはいえ、彼を覚えていたのだ。
つい溜め息を漏らす。
精神年齢が上だから恋愛感情は芽生えない。そう思っていたけれど、ひょっとしたら原因は私の中にあったのかもしれない。
私の中には、未だに彼が留まっている。
“友達”という位置にいた彼の事を。
「……」
夢の中だというのに、私は自分の感情につい溜め息を漏らしてしまう。
理性で制御出来ない感情ほど厄介なものはない。
そんな事を考えながら、私はもう一度溜め息を落とした。




