君は誰?・2
今日は珍しく中庭をのんびりと歩く。園芸部が手塩にかけて育てているだけあって、綺麗な花園は季節によって、その色を別のものへと変える。
昼休みや美術の時間にここを歩くのも良いけど、夕日の中、オレンジに染まる花々を見ながら歩くのも悪くない。
次回の美術はここでスケッチしようかな。
景色を堪能しながら、この景色の何処を描こうかと迷いながら歩いていた時、黒猫が前を通り過ぎていく。ん? 猫? こんな場所にいたっけか。
そう思いながらしゃがみこみ、黒猫を探す。実は黒猫が大好きだったりする。
「猫さーん。いますかーー?」
そんな事を言っても出てきてくれるわけじゃないのはよく分かっているけど、ついつい言ってしまう。もう奥の方に行っちゃったかな?
半ば諦めている私に、頭上から声が降ってきた。
「猫とはこれの事か?」
少しぶっきらぼうな声。と鈴の音。顔を上げてみたら、知らない男の子と、その肩にはさっき見たばかりの黒猫がいた。男の子はすけるような銀の髪を後ろで一つに縛っていた。
私はスカートについた汚れを払いながら立ち上がり、猫を確認する。
「うん。その猫。可愛いなって思って。えーと……君の猫さん?」
肩に乗っていた猫は、男の子の頬にすり寄せる。首輪もしているから男の子の飼い猫なのだろう。でも、猫が男の子を大好きという印象を受けた。
「あぁ」
男の子は頷き、私に向かって右腕を突き出す。ちょっと吃驚したけど、黒猫はその腕をつたって私の肩に飛び乗ると、頬をすり寄せてくる。
うわっ。可愛い!!
テンションが上がる私に、男の子は“クロ”と言葉を発する。多分、猫の名前だよね。
「クロちゃんって言うの? 人懐っこいね」
初対面の私に頬をすり寄せてくれるなんて、と思って口に出したけど、男の子は意味ありげに笑う。笑うといっても、口の端を軽く上に上げただけの笑顔。
けれどその時、私は変な事を思った。
あぁ。すごく機嫌が良さそうと。
初対面の男の子の挑戦的な笑みを向けられただけなのに、何でこんなふうに思うんだろう。
「……君。何て名前?」
初対面の──……はず。見覚えはない。若干戸惑いながら、私は男の子に名前を尋ねる。その優しげな眼差しに何かが引っかかる。
なんだろう。
どうしてだろう。
男の子にも、クロという名前の猫の存在も、胸の奥が温かくなる。その感情は時間の経過と共にどんどんと大きくなっていくような気がした。
「何だと思う?」
私の名を尋ねるわけではなく、男の子は逆に問いかけてきた。聞いているのはこっちなのに。そう思ったけど、その瞬間酷い頭痛を感じ、私は咄嗟に両手で頭を抑え付けた。
クロは私の両腕が動いたと同時に地面へと飛び降りて、歩いて何処かに行ってしまったけど、それを見ても追いかける余裕はない。
痛い。それしか考えられない。何だろうこれ。本当に何?
半ば混乱状態に陥った私は、自分で立っている事が出来ずに、崩れ落ちるように膝を地面へとつけ、頭を抱え込む。
何だと思う?
ただそれを言われただけなのに、どうしてこんなに頭が痛いんだろう。自分でもおかしいと思うのに、男の子は何も言わずに、ただ悲しそうに表情を歪めた。
そんな表情をしないで。昔みたいに笑っている方がいいよ。
そう思った時、今までで一番酷い頭痛に襲われた。下手をすれば意識を手放してしまいそうな程の痛み。
「まだ早かったか……璃音。目を閉じろ。もう思い出そうとしなくてもいい。今は……」
男の子は肩膝をつけ、右手の平を私の目にあてて、優しい声と笑顔で私に言い聞かせる。
「璃音。大丈夫だ」
「……でも」
思い出したい。何故かそう思った。
「その気持ちだけで俺は十分だ。1分。1分だけでいいから目を閉じてろ。そうすれば、もう痛くない」
そういうと、男の子の手の温もりが遠ざかる。
気配が、私から遠ざかっていく。行かないで。その言葉は音にはならずに空気に溶けていく。
クロがもう心配しなくていいとばかりに、私の足に擦り寄り、一声鳴いた後に、クロも遠ざかっていった。
男の子もクロも思い出せない。その事が悲しくて、涙が頬を伝う。男の子の言う通り、1分程経った後に目を開けたら、頭痛も何もかもが消えていた。
先程までの頭痛が嘘のように。
一瞬夢だったのだろうかと錯覚しそうになるけど、クロが擦り寄ってくれた感触が残っていた。これだけが夢ではないと私に教えてくれる。
「あれ?」
立ち上がろうとして気付いた。地面に置いてある霞草。昔から好きな花。人に話した事はなかったと思うんだけど。
それを手に取り、私は立ち上がった。この花園に霞草はなかったはず。そうなると、これを置いていってくれたのはさっきの男の子という事になる。
私にくれたんだろうか。持っている霞草に視線を落とした。私の目の前に、花園にはない花を置いていってくれたという事は、私にくれたと解釈しても良いのだろう。多分だけど。
すっかり収まった頭痛を不思議に思ったけど、これ以上ここに留まる気分にはなれずに、私は帰る為に歩き出した。
本当になんだったんだろう。
疑問だけがいつまでも消えず、私の中に残っていた。




