恋は盲目
仕事帰りに気の合う女友達とお洒落なカフェで過ごす時間は、人生の中でも最高に楽しいことの一つだと思う。
この日も同僚のユリカが、雑誌でオススメの店を見つけたから行ってみないかと声をかけてきた。お給料も入ったばかりだし、もちろんOK。
お店に着くまでの間は、仕事の愚痴や上司の悪口なんかをぶつけあってストレス発散。さほど中身のない話に興じるわたしたちを見て、おじさんたちは顔をしかめてみせたりする。でも、女の子はくだらないおしゃべりをしないと死んでしまう生き物なのだから仕方がない。
その店は、会社のごく近くにあった。外観からして中世のお城の一角を想わせるような、灰色の石を組み上げてつくられた外壁が印象的だった。入口は2階。長い毛足の絨毯が敷かれた階段を上がると、やわらかなランプの光に照らされたドアがあった。
コーヒーの良い香りが漂う店内には、会話の邪魔にならない程度の音量でクラシック音楽が流れている。椅子もテーブルもすべてがアンティーク調で揃えられ、しっとりと落ち着いた雰囲気の店内。席はまばらに空いていて、客層はわたしたちと同じく仕事帰りの若い女の子たちばかり。メニューを眺め、ちょっと高いねえなんて言いながら、ふたりともケーキとカフェラテを注文した。
それから2時間。ユリカは2か月前に交際を始めたという「彼」の話を延々と続けている。出会いから、初デートの話、部屋に来た時の話、そしてちょっとエッチな話。
「それで、もうわたしから目が離せないなんていうのよ。笑っちゃうでしょ?」
もう何度めだろう。あいづちをうつのにも疲れてきて、わたしはあいまいな笑顔で応じる。話に飽きてきているのを示すために、食べ終わったケーキの包み紙を幾重にも折ってみたり、冷めきったカフェオレをスプーンでかきまわしたりしてみたものの、効果はナシ。
ユリカの顔を見る。オレンジ色の光に照らされた可愛らしい顔は、まさしく恋のよろこびに浸っているとでもいうように華やいで見える。それはお化粧のせいとか、ライトの加減とかではなくて、きっと嬉しさや楽しさが内面からにじみ出ているからなのだろう。
うらやましいなあ。軽くため息。
恋人ができると、誰かにちょっと自慢したくなる。自分たちの秘密をほんの少しだけ誰かに話したくなる。それはとてもよくわかる。
でも、それを話すのは、できれば同じように恋人がいる友達を選んでほしいと思う。幸せな恋の渦中にいるひとなら、恋人自慢だろうが、痴話げんかの愚痴だろうが、寛容な心を持って聞き流すことができるだろう。
でも、わたしみたいに恋人どころか男友達さえいない人間は、そんな話を聞かされても深いため息しか出てこない。ああ、いいなあ。どこかにいいひと落ちてないかしら。
ふと、ユリカが黙りこみ、華やいだ表情に影がさす。
あら、話をちゃんと聞いていないのがバレちゃったかな。怒らせるつもりなんてないのに、困っちゃったなあ。
「ね、ねえ、ユリカ、別に話を聞いてないわけじゃなくて」
「あのね、でも、ちょっと気になることがあるのよ」
わたしの声にかぶせるように、ユリカが伏し目がちに呟いた。なんだ、わたしのことじゃ無いらしい。気を取り直して言う。
「気になるって、彼のこと?」
「そうなの、うーん、気にするほどのことでもないのかもしれないけど・・・」
ユリカが綺麗に手入れされた人差し指の爪で黒い円形のテーブルをコツコツと叩く。何かを迷っているときの癖。デスクでもよくやっている。
店員がぬるくなったグラスの水を下げ、美しいボトルに入った水と新たなグラスを置いていく。水を一口飲む。良く冷やされていて、とても美味しい。グラスの中で透明の氷がカランと音をたてる。ユリカの人差し指はまだコツコツと音を鳴らし続けている。
すこし間をおいて、ユリカが口を開く。
「ねえ、ミサキだったら、彼にどこまで見られても平気?」
「ええっ?」
急な質問にうろたえてしまう。どこまでって、どういうことだろう。
「な、なによ。それって、あの、裸をみられてもいいかどうかっていうこと?」
ユリカの表情がゆるむ。
「あはは、違うよ、そうじゃなくてさあ。うーん、たとえばねえ・・・ああ、ケータイの履歴なんかはどう?見られても平気?」
「なんだ、そういうこと?わたしは別にかまわないけどな」
そもそも履歴をのぞいてくれるような彼氏がいないことのほうが問題なのだ。そういうと、ユリカはちょっと笑って、また表情を引き締める。
「じゃあ、部屋の中は?クローゼットにしまってある下着は?どう?」
「部屋は、まあ、事前に片付けておけば見られても良いかな・・・でも下着はちょっと嫌だなあ」
そんなに綺麗な下着ばかりそろえているわけじゃないし。男の人に自分の下着を見られるなんて、やっぱりどう考えても恥ずかしい。
「そうよねえ・・・じゃあ、郵便は?昔のアルバムは?自分がいない間に自分の実家の部屋を見られるのはどう?」
「郵便って・・・ほかの男から来てるやつとか?」
「違う。ダイレクトメールから請求書、年賀状まで全部よ。わたしが見る前に全部読んでるみたいなのよね。アルバムはわたしの部屋にあるものだけじゃなくて、わざわざ実家まで行って親に頼んで見せてもらったらしいの。そのときに部屋の中も・・・」
なんとなく、背筋がゾクリとした。思わず両手で自分の肩を抱く。店員がチラリとこちらを見たので、適当に会釈を返した。ユリカに視線を戻す。
「実家まで、彼がひとりで行ったっていうこと?アルバムを見るためだけに?・・・っていうか、もうご両親にも紹介してたっけ?」
付き合って2カ月で、普通ひとりで彼女の実家まで行くだろうか。しかもユリカの実家はここから新幹線でも3時間はかかる場所にある。
ユリカは表情をさらに曇らせる。
「まだ紹介どころか、付き合ってることすら両親には言ってなかったわよ。だからすごくびっくりしたって、電話がかかってきたの。それだけじゃないわ、冷蔵庫の食材の減り方や、ゴミ箱のゴミの中身まで全部チェックするの」
「冷蔵庫・・・ゴミ箱まで・・・?」
「そう。わたしが何を食べているか、何を捨てているのか、全部知っておきたいって。使用済みの生理用品まで、毎回全部開いて見られるの・・・いくらなんでも、ちょっとおかしいんじゃないかなって・・・」
そして、言うのだそうだ。
僕の可愛いユリカ。こんなインスタントばかり食べていたら、綺麗な肌がすぐにぼろぼろになってしまうよ。僕が買ってきて置いた野菜をしっかりたべなきゃ。この袋はあのスーパーだね。あそこは品物があまりよくないから、別のところで買った方がいい。ああ、生理は順調だね。結婚したらすぐに子供が欲しいから、僕はこういうことも知っておきたいんだ。
「ただ、見るだけなのよ。見て、チェックして、簡単にアドバイスして、それで満足してるみたいなの。それ以外は、仕事も真面目だし、優しいし、特に何も問題無いんだけど・・・でも、ちょっとそういうのが最近やっぱりちょっと変わってる気がして、ミサキだったらどう思うかなって」
「わたしじゃなくても、異常だと思うよ、それは」
生理用品のくだりでのどもとまで胃液がこみ上げてきて、ハンカチで口を押さえる。異常より何より、気持ちが悪い。
「ねえ、どうしたらいいと思う?彼はもうすっかりわたしと結婚する気でいるんだけど・・・」
「ええっ・・・悪いことは言わないから、そのひとだけはやめておいた方がいいよ。ユリカの彼氏なのにこんなこと言っちゃ申し訳ないけど、やっぱりちょっとおかしいと思う」
「そう・・・実はマユミとサアヤにも相談したんだけど、やっぱり同じこと言われたわ」
「だって、そこまでチェックしなきゃ気が済まない人と一緒に生活なんてできないよ・・・」
わたしだったら、見えない縄でがんじがらめに縛られているような気持ちになるだろう。とてもじゃないが耐えられる自信がない。それだったら、彼氏なんていないままでかまわない。
「あ、そういえばマユミとサアヤって、最近どうしてるんだろう。あんまり顔を合わすことがなくなっちゃったな。また4人でお茶したいね」
4人とも同期で入社して、ふたりは部署が違うので疎遠になりがちだけど、けっこう気の合う子たちで、ユリカと同様わたしの楽しいおしゃべり仲間なのだ。
ユリカが言葉を濁しながら、時計に視線を落とす。
「いけない、もうこんな時間。そろそろ出ようか」
わたしも時計を見る。すでに22時を過ぎていた。
「おしゃべりしてると時間がたつのを忘れちゃうね」
鼻にしわを寄せて笑うユリカの声に、わたしもほんとだね、と声をそろえて笑った。手を挙げて店員を呼び、テーブルで会計を済ませて立ち上がる。大きな窓の向こうに繁華街のイルミネーションがきらきらと輝いている。本当に静かで雰囲気のいい店。また来ようね、と約束してわたしたちは店を出た。
店のドアを一歩出たところで、ユリカがお手洗いに行きたいと言い出したので、同じフロアの廊下の奥にあるお手洗いに向かった。廊下もランプの光がいくつか灯されているだけで、明るすぎず落ちついた感じがする。やっぱり絨毯の毛足はすごく長くて、わたしたちの足音も吸収されてしまう。ああ、だから店の中も静かだったのか、と納得する。
お手洗いの入口の壁は大理石で、手前にふたり掛けのソファが置いてある。お手洗いに行きたいと言ったユリカがソファにゆったりと腰かける。
「あれ?トイレ、行かないの?」
「うーん、あのねえ・・・」
なんだろう。さっきもそうだったけど、あいまいに言葉を濁してはっきりしない。足元に視線を落したまま、ソファの肘掛に人差し指の爪をコツコツとやりはじめる。
お手洗いは店舗がある場所からずいぶんと奥まった場所にあり、この時間は人気もなく静まり返っている。コツコツという爪の音だけが響く。
ユリカが顔をあげる。ゆっくりとわたしのほうを見て、ちょっと泣きそうな顔になる。
違う。わたしじゃない。
ユリカはわたしの後ろを見ている。
振り返ると、すぐ後ろにスーツ姿の男性がいた。細身で背が高く、優しそうな笑顔。ユリカが話していた彼の様子と酷似している。全然気付かなかったので、怖いのと驚いたのとでヒッと声が漏れる。心臓が早鐘を打つ。
「彼女かい?僕らの仲を賛成してくれないというひとは」
目の前の男性から発せられた、良く通る大人の男性の声。それはあくまでも理性的で、おかしなところなど欠片も見当たらない。
「やっぱり、異常だって言われたわ」
ユリカが感情の無い声で言う。
男性は笑う。
「異常なわけがないだろう。愛情があるから、ユリカのことをなんでも知っておきたいって思うんじゃないか。きっと、僕らのことを妬いているだけなんだよ」
ユリカは甘えた声を出す。
「でも、わたし、みんなに『いいひとと結婚したね、幸せだね』って言ってもらえるようなひととじゃないと、結婚したくないの。ミサキはあなたのこと異常だって言ったわ」
「ち、ちょっと、ユリカ」
本人の前でそんなことを言うなんて、どういうつもり?焦るわたしの声を男性の声が遮る。
「そうか。みんな幸せなユリカを妬んで、仕方がないね。じゃあ、幸せだって言ってくれない子とはサヨナラしなくちゃ」
「・・・そうしようかな」
「え?ちょっと、ユリカ、本気で言ってるの?」
どう考えても異常な男のことを指摘しただけで、わたしとの友達づきあいをやめるというのだろうか。おかしい、そんなの絶対におかしい。
「ねえ、よく考えてよ、さっき話してくれたみたいなことが本当だったら、ユリカ結婚しても幸せになんかなれるわけないじゃない。絶対おかしいよ、やめなって」
ユリカの人差し指がまた、コツコツと音をたてる。迷っている。考えている。でも顔はまっすぐに男性を見て微笑んでいる。恋する女の表情。
ユリカが手に持った携帯電話をゆらゆらと揺らして見せる。
「ミサキとのおしゃべりも、ユウくん知りたいっていうから、全部聞かせてあげていたの」
「え?」
ユリカの代わりに男性が答える。
「彼女が傷つくようなことを言われないか心配だからね。ケータイを僕につなぎっぱなしにしておいてもらったんだ」
「だから、ミサキが彼のことをどう言ったか、ユウくんは全部知ってるの」
ユリカがくすくすと笑う。なんだろう。いつのまにか自分の体が震えていることに気がついた。友達と、その彼氏が目の前にいるだけなのに、怖い。ものすごく怖い。
平坦な声でユリカが続ける。
「マユミもサアヤも、ユウくんのこと異常だって、おかしいって言ったのよ。そりゃあ、ちょっとはほかの人と違うかもしれないけど・・・」
「僕はほかの男たちが女性を愛するよりも、ずっとずっと深くユリカを想っているからね」
「ね?ユウくんがこう言うんだから、やっぱり信じたいじゃない」
「ユリカ・・・」
ふたりは仲睦まじく見つめあっている。恋は盲目とは良く言ったものだと思う。
それならそれで仕方がない。わたしは男性の横をすり抜けて、ひとりで帰ろうとした。一刻も早くこの場から離れたかった。
後ろから男性の手がわたしの肩を、ぐい、とつかんだ。
「逃がさないよ?」
「なに?どういうこと?」
男性の声は相変わらず冷静で、なにもおかしなところなどないはずなのに、それなのにわけのわからない恐怖で震えが止まらない。帰りたい。早くここから消えたい。わたしの声は情けないくらいにか細い。
「離してよ、あなたたちは、好きにすればいいじゃない、わたしは、関係、ないでしょう?」
「そうはいかないんだ」
ユリカが立ち上がり、わたしの目の前で涙を浮かべている。
「ごめんね。いままで楽しかった。もっと一緒に遊びたかったわ」
「え?なに、それ、どういう・・・」
「一度でもユウくんを悪く言った人は、そのあと誰かにまたユウくんの悪い評判を吹き込むじゃない。そんなの困るわ。わたし、ユウくんと幸せになりたいもの」
「ユ、ユリカだってさっき彼のことおかしいって思うって、言ってたじゃない」
「おかしいなんて言ってないわ。ちょっと変なのかなって思っただけ。でもやっぱり違う。ユウくんはこんなにわたしのことを想ってくれているんだもん」
男性の手が、わたしの首に伸びる。
「え?冗談でしょう?なんなのよ、ねえっ」
「ほかのお友達も嫉妬して僕の悪口を言った子には、ユリカの前から消えてもらったんだ。悪い評判は元から絶たないとね。だいじょうぶ。ちょっと苦しいだけだから」
ここでは気絶してもらうだけだよ、あとでユリカの部屋でゆっくりと丁寧に刻んで、わからないようにトイレに流してあげるから。
手が、首にぎゅうぎゅうと食い込んでくる。意識が遠のく。暗闇に飲み込まれる寸前に、ユリカの声が耳に響いた。
「わたし、料理も得意なのよ。良い奥さんになるわ」
(おわり)