十四,住民整理
ランチから帰ってくると、五〇五号室にはランチの間に管理人平山が用意してくれた表札が出ていた。
「 紅倉 法 律相談所 」
紅倉は顔をくっつけて文字を読み、
「よしよし、言いつけ通りになってるわね」
と、帰りに買ってきた赤の油性ペンで
「ナムアミダブツ」
と唱えて「法」の字を丸で囲んだ。
「これでよしっと」
紅倉は満足して鍵の掛かっていないドアを開けて中に入った。芙蓉は表札を眺め、そこに紅倉の霊力が込められたのを感じた。法律相談所が人間相手のものであるはずもなく、そんな資格紅倉は持っていない。「法」とはいわば「法力」などと言う場合の意味だ。
居間にはこれまた忠実な信奉者が運び入れた座椅子と座卓が置かれていた。紅倉はいそいそと座椅子の座り心地を確かめ、芙蓉はコンビニのビニール袋をテーブルに置くと、訊いた。
「で? どうなるんです?」
「まあまあ、あなたも腰を据えて、お茶とデザートを楽しみましょう?」
「まあよろしいですけれど」
芙蓉は座布団に座って、袋を広げ、ペットボトルのお茶と奈緒お勧めコンビニスイーツを取り出した。
「先生。このところ食欲が旺盛ですねえ?」
ランチはファミレスでこれも奈緒お勧めのナポリタンスパゲッティーを食べた。紅倉はトマトソースのパスタが大好物である。他の物を知らないだけという面もあるが。
「育ち盛りなのよ」
と紅倉はクリームのスイーツに手を伸ばした。芙蓉はこんなにたっぷりのクリームで気持ち悪くならないかしらと心配したが、飽きて残せば自分が食べる。芙蓉はエクレアを取った。確かに紅倉はこっちに越してからというものよく外を歩くようになり、顔色も健康的になったと思う。
二人でのんびり食後のデザートを楽しみ、三十分ほどすると。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。芙蓉が玄関に立って応答した。
「はい、どなた?」
「四〇五号室の河嶋と七〇五号室の遠藤だ」
しっかりとした太い大人の男の声だ。どうやら住人たちが連れ立ってきたようだが、ちょうどこの下と上の上の部屋だ。紅倉も出てきた。
「開けていいですか?」
「もちろん。どうぞ」
芙蓉はドアを開けた。立っていたのは思わずハッとするような肉の厚い大男だった。いかにも日ごろ肉体労働で汗を流しているような骨の図太そうな体型だ。その隣も男で、こちらは細面で神経質そうな渋面を作っているが、こっちもスマートながらテニスでもやっていそうな筋肉質の体つきをしている。二人とも三十代後半と見える。
「なんでしょう?」
「なんでしょうじゃねえよ。なんなんだよ、これ?」
肉体労働の河嶋だろうか?が怒った声と顔でドアの隣、表札の下に張ってあったお札を突き出し、びらびら振った。芙蓉は二人の狂暴な目つきにスッと冷たい無表情になり、体をリラックスさせた。芙蓉の場合は合気道なので体をリラックスさせるのが戦闘態勢だ。
「不法滞在十年間、家賃滞納六百万円だあ?」
「わたしは十四年で八百四十万円だ」
「盆の入りまでに支払えたあどういう了見だ? てめえ何様だよ!?」
「いえ、これは住人の方への催促ではなく勝手に間借りしている幽霊に対する催促です」
「ああ、いえ、美貴ちゃん。ですからその、ご本人、たちよ」
芙蓉は改めて二人の油の浮いたようなギラギラした黄色い凶暴な目を見て、
「ああなるほど、そういうことですか」
と納得した。
「何様かって訊いてんだよ、おいこらあっ!」
Tシャツを着た河嶋の太くごつい腕が芙蓉の胸元めがけて伸びた。芙蓉はスッと身を引き、次の瞬間河嶋の巨体が空中で丸く一回転して玄関の狭い土間に背中からドンッ!と落下した。
「うげえっ、」
河嶋は悲鳴を上げ、
「女が舐めた真似を!」
怒りに目を吊り上げた遠藤がもっと直接的にゴルフシャツを着た長い腕でパンチを突き出した。芙蓉にスッと横に撫でられ、遠藤のグウの手は壁をしたたかに殴り、
「ぎゃっ、くそっ」
真っ赤になって次の攻撃をくり出そうとしたときには芙蓉はドアの内側に飛び込んできた遠藤の隣にスッと踏み出し、かかとで膝を裏から折ると、腰と肩に手を当て、グルンと風車のように遠藤の長身を回転させ、河嶋の上にお尻からドシン!と落下させた。哀れ河嶋が潰れた悲鳴を上げた。
紅倉がパチパチパチと拍手した。
「うちの美貴ちゃんは強いわよお? まだ痛い目に遭いたい? 体の主に迷惑になるからさっさと諦めてほしいんだけどなあ?」
「うう…、くそお………」
遠藤が立ち上がり、河嶋も腹を押さえながら起き上がり、芙蓉は腕を横に伸ばして紅倉を下がらせた。
ギラギラ怒りに燃える遠藤河嶋の顔が、更に凶悪に真っ赤になった。紅倉が右手をパーで突き出した。
「待った。直接霊体で闘おうというならわたしは美貴ちゃんの千倍強いわよ? 上の部屋の住人がどうなったか?知ってるでしょう?」
二人はギョッとして、目を交わし合い、しゅんと大人しくなった。
「えーと、このままあなた方とお話しできるのね?」
「はい。わたしたちは『住人』を代表してあなた方と話を付けに来たんです」
「話を付けに、ねえ。それにしちゃあずいぶん乱暴な態度ね?」
「すみません。しかし、いきなりこんな物突きつけられちゃあ、こっちだって、怒りますよ?」
「怒りはフォースの暗黒面を引き寄せますよ?」
「はあ?」
「ちょっとした冗談です。でも、あなたたち、自分たちが悪霊化する寸前だったのは自覚しなくちゃ駄目よ?」
「すみません……」
「よろしい。まあ立ち話もなんですから、お座りなさい」
と、紅倉は男二人を上がりがまちのキッチンの板間に正座させた。大柄の肩をくっつけて並んだ河嶋と遠藤は困った顔を見合わせて訊いた。
「しかしいきなりこんな要求されても……なあ?」
「幽霊なのに不法滞在なんて、考えもしなかったですから、お金なんか要求されても……、なあ?」
二人は顔を見合わせ、無茶な要求をする紅倉を上目遣いで非難がましく見た。
「甘ーい! この世にとどまっていっぱしに『暮らし』を楽しんでいるくせに、払う物払わないなんて、人の道にもとるでしょうが?」
「いや、でも俺たち幽霊だから…」
「じゃあ死人らしくさっさと成仏しろ」
「うう…、それは……」
勘弁してくださいと、背を丸めながら卑屈に許しを請うた。
「却下。自分たちがいることで住人の人生にマイナスになっているのを、あんたたちも分かってるんでしょう?」
「…………………」
「叱られた小学生みたいにすねてるんじゃない! 生きた人間の霊体に悪影響及ぼして、人生への積極的な意欲を失わせているのよっ。つまりねえ、あんたたち幽霊は、貧乏神なのよっ。お分かり?」
「……はあい。すんませ〜ん」
「反省しろ反省! この、疫病神どもが!」
芙蓉は、相手が幽霊だと途端に高飛車だなあ、と、笑いたくなるのを堪えていた。
「きっちりこの世で余分に過ごさせてもらっただけの礼を返して、それから後腐れなく成仏しなさい」
「金は取られるは成仏はさせられるは、我々は踏んだり蹴ったりじゃないですか?」
「ああ〜ん? 文句あるう〜? んじゃあこのまま霊道に強制収監して地獄に行くう〜?」
「怖いなあ……。俺、生きてる間地獄に行くほど悪いことはしてないと思うんだけどなあー……………」
「何年間も幽霊やっとるやつなんざあ地獄行きに決まってる! 生きている人間に迷惑掛けている段階で、アウト。」
「そんなあ………………………。鬼」
「はああ? なんだってえ〜?」
「……悪魔。人でなし。幽霊殺し。」
「あーあー、言ってくれるじゃないの?」
「だってえ〜〜……」
「せーっかく、天国に行ける免罪符をあげようと思ったのになあーーー」
「免罪符? 本当?」
「わたしの顔を見なさい。まるで天使のような美人でしょう?」
「…………………」
「免罪符。欲しくないの?」
「う〜〜〜……、欲しい……です、天使様……」
「素直でよろしい。じゃあさっさとお金を作って部屋の主に換金なさい」
「俺たち死人の幽霊ですよ? どうやってお金なんか稼げって言うんです?」
「幽霊なんだもの、その気になればなんでも出来るでしょう? 宝くじを当てさせてやるとか、旦那の上司に取り憑いて旦那を出世させてやるとか、いろいろあるでしょう?」
「………そんな超常現象、俺たちに起こせるんでしょうか?」
「幽霊が超常現象起こさないで誰が起こすって言うのよ? おらおら、死んだ気になって必死に働きやがれ!」
「無茶言う姉ちゃんだなあ。そんなインチキして、地獄に落とされません?」
「わたしの免罪符があれば大丈夫! わたしは神がこの世に産み落とした奇跡の存在なんだから」
「自分でよくそこまで言いますなあ。…………俺たち、どうしても成仏しなくちゃ駄目ですか?」
「駄目。大人しく成仏するなら恩情を掛けてあげます。抵抗したり隠れて逃れようとすれば、強制的に掃除します。そのお札には既にあなた方全員の個人データが封入済みです。この世にいる限りわたしから逃れることは出来ません」
二人は諦めて残念そうにため息をついた。紅倉は笑って言ってやった。
「あなたたちこそ、ずうっとこんなところに引きこもっていて楽しい? 成仏すれば、信じられないくらい新しい世界が広がるのよ?」
「そうなんですか?」
「あの世にいる丹波哲朗さんが『大霊界』でそのように言ってますよ?」
「・・・・・・・・・・・」
最後の余計なギャグはともかく、河嶋と遠藤、に取り憑いて操っている幽霊たちは大人しく出ていった。紅倉はその背中に、
「マンションのみんなにもちゃんと伝えるのよー? まあ、もうみんな伝わってるはずだけど」
とだめ押しに呼びかけた。通路に出て彼らが階段へ折れていくのを確認して戻ってきた芙蓉は
「あれ、幽霊なんですよね? わたし、あんなにべらべらおしゃべりする幽霊なんて初めてですよ?」
と面白そうに言った。
「そう? まあ幽霊もいろいろいるからねえー。さて、と」
紅倉は芙蓉にニコッと笑いかけた。
「おうちに帰りますか」
「ここはそのままでいいんですか?」
「お盆まで、ちょうど約一月ね?、あれだけ言って聞かせればもう用はないでしょう」
「いえ、ここにもDV夫婦の幽霊がいるんじゃありませんでした?」
「ああ、いたわね、お風呂場に」
芙蓉はさすがに嫌だなと風呂場の方を見た。紅倉は考え、
「ま、いいわ、放っておいて。今度来たとき、まだグズグズ言ってる奴がいた場合の見せしめに取っておきましょう」
と、玄関で靴を履きだした。芙蓉はあーあ奥さんかわいそうにと紅倉の態度に腑に落ちないものを感じたが、ま、何か考えがあるのだろう。
「先生、勝手に先行っちゃ駄目ですよ」
芙蓉は紅倉を追って、緑色のドアを閉めた。鍵は掛けない。