十三,督促状
翌日、日曜日。
午前中にマンションに来た紅倉は芙蓉、平山と共に各部屋を回り始めた。ドアの前に立って手をかざし、中に居る霊たちを調査する。
「ウ〜〜〜ッム。六年前からね」
芙蓉が電卓で計算し、お札に筆ペンで書き入れる。
『 滞納額 七十二ヶ月 金三百六十万円 盆の入りまでに家主に支払いのこと 』
ガムテープでべたっと表札の下に張り付ける。お札の裏面には朱肉で紅倉の拇印がべったり押してある。ドアを半分開け部屋の住人が何やってるんだ?と不審な顔を覗かせる。紅倉はニッコリ笑顔で。
「ああ、今不法居住の幽霊から取り立てを行っています。きっとお盆までにいいことが起きますから期待していてください。ただし、このお札は決して剥がさないように。剥がすと不幸が起きます。最悪、悪霊に取り殺されることにもなりかねませんので、くれぐれも、よろしく」
住人はなんの冗談、または嫌がらせかと、非常に迷惑そうに同行の管理人平山を見た。今や紅倉の忠実な下部と化した平山は明るい正義感溢れる表情で、
「先生のおっしゃられます通りにお願いします。きっとあなたにも明るい未来が開けるでしょう」
と、すっかり紅倉に取り憑かれたような事を言った。
住人は気味悪そうに憑き物の落ちたようにすっきりした平山を眺め、関わらない方がいいだろうと無言でドアを閉めた。
五年、八年、十年、十五年、二十二年、二十六年、二十九年、三十年!、と、
紅倉は次々各部屋の不法滞在幽霊たちを霊視し、芙蓉は年数に応じた計算をして数字を書き入れたお札をべたべた張っていった。最高額は千八百万円! 独り暮らしのお婆ちゃんの部屋だった。
六〇五号室。
霊視を行った紅倉は
「おんやあ〜?」
と不気味な笑みを浮かべた。こういう顔をするときは大抵ろくな事を考えていない、と、芙蓉は警戒した。部屋に表札は出ていなかったが忠実な下部平山が
「四元奈緒さんのお部屋です」
と教えた。紅倉はチャイムを鳴らし、
「こんにちはー、悪霊駆除に参りましたー」
と声を掛けた。しばらくして、
「あの…、どなたですって?」
と声がした。クラブのホステスさんは今朝お帰りで、今夜はお仕事は休みだ。
「悪霊駆除です」
「うちは間に合ってます」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。ただですから」
「世の中ただより怖い物はありません」
「まあ、さすがよく分かってらっしゃる。でも大丈夫、オーナーさんとの契約でギャラはそちらからいただきますので」
「あのー…、本当になんなんです?」
「ですから悪霊駆除です。
あなたはズバリ、男運が悪い! 自分でも呆れるくらい次から次にろくでもない男にばっかり引っかかってしまう」
「…………………」
「あなたはズバリ、大金を稼いでいるのにそのお金がまったく身に付かない!」
「…………………」
「あなたはズバリ、たいへんな美人である!」
「…………………………」
「はい、あなたはたいへんたちの悪い悪霊に憑かれています。
あなた、自殺を考えているでしょう?」
「……そんなこと、考えていません」
「菊池さんの奥さんが何故だか知らないけど自分に殺意を抱いているのに気付いていたでしょう? でもあなたはそれを拒まず、なるようになれと思っていた。そうですよね?」
「…………………………」
「ご安心なさい。わたしのアシスタントはたいへんな美人好きです。スケベな女たらしです。ただが信用できないならアシスタントに体で支払ってくださってもけっこうですよ? ちなみにわたしのアシスタントは女で、彼女もたいへんな美人です」
「先生。なに勝手なこと言ってるんです?」
と言いつつ芙蓉もこの住人の容姿には大いに興味を持った。
ドアが、開いた。
まだ細い隙間から警戒した顔を覗かせる四元奈緒を見て、芙蓉は目を丸くした。彼女がこう言っても世の大多数の女性の反感を買うだけだろうが、世の中には凡百の、普通のいわゆる美人、がどんなに高い化粧品を買い漁ろうが決して近づけぬ生まれながらに作りの違う本物の美女というのはいるものだと思った。例えるなら、十代のエリザベス・テーラーか。ズイと紅倉を押しのけ前に出た。
「わたしたちは美しい女性の味方です。困っているんでしょう? 何なりとご相談ください、お姉さま」
「あら? あなたはどこかで……」
「ええい、どけ、真性レズ娘。おらおらあんたもさっさとドアを開けなさい」
紅倉が再び芙蓉を押しのけドアに手を掛けると、奈緒は抵抗することなくドアを開かせた。
「はいはいお邪魔しますよー、お嬢さん」
玄関にちん入した紅倉は、悪ふざけが過ぎたかと、奈緒を見てクスッと笑った。
「霊能力を商売にしている紅倉美姫と申します」
「そのパートナーの芙蓉美貴です」
芙蓉は後ろから紅倉の肩に手を掛けて横に動かし、隣に立つと、奈緒を安心させるように落ち着いた笑顔を見せた。奈緒もああと思い出した。
「お客様の話題で聞きました。テレビに出ていた霊能力者の紅倉美姫さんと芙蓉美貴さん。こちらに越してこられたとか?」
「歩いて三十分のご近所です。よろしく」
と、今度は芙蓉の笑顔に崩れたにやけが混じり、奈緒は本当にそっちの気なのかしら?と怪しみ、クスクス笑いだした。紅倉が言った。
「はい、漫才はここまで。ふうん、やっぱりあなたもこのマンションに住んで霊道の影響をかなり受けちゃってるわね? あなた、もともと霊が見える人だったでしょう?」
「ええ。中学生の頃はよく。でも一時的なものだったみたいで、その後は見なくなりました」
「思春期の不安定な一時期にね。あなたは見えることにひどく抵抗したんじゃない?」
「そう……だったかも知れません……。だって、あの、そのう……、そんな物が見える女の子なんて、気持ち悪いじゃないですか?……」
バリバリ見まくっている気持ち悪い女子に遠慮して言った。紅倉はツーンとして。
「まあね。最初は面白がられても、じきに嫌われるようになるでしょうね。ま、ともかく、あなたはそれで無理やり霊に鈍感になってしまったけれど、それが仇となってよりにもよってこんなマンションを選ばせてしまった。あなたはここに決めるとき、変だなと思うよりも、何か運命的な物を感じたんじゃない?」
「そうだったかも知れません。当時は短大を出て、ちゃんとしたお昼の仕事に就いて、希望に輝いていた時でしたから」
「つまりねえ、あなたは無理やり見えないように視覚的波長をずらしていたけれど、霊感自体は無くなってはいなかったのよ。感じているのに、見えないから、運命とかなんとか、別の物に結びつけちゃったのね。本当はあまりいい物じゃないのに、あなたは感覚を取り違えて、わざわざ自分から引き寄せられてしまった。ほんと、損な性格ねえ?」
「ほんと、そうですね」
奈緒は自嘲して寂しく笑った。過去にいろいろ思い当たることがあるのだろう。そんなやっかい事につけ込まれる性格だからこそ、競争激しい夜のお店でトップの人気を得ているのだろうが。紅倉はフッと笑ってこの薄幸の美女を励ました。
「大丈夫よ、これからこの美貴ちゃんに感覚を矯正してもらうから。しばらく通ってもらうことになるけど、いいわね?」
「ええ……」
奈緒は芙蓉を見て微笑んだ。
「よろしくお願いします、芙蓉さん」
あまり当てにもしていないようで、この場のおつき合いのつもりだろう。しかし芙蓉はせっかくの美味しい獲物を逃すつもりはない。
「なんならわたしが押し掛けますから。きっちり、完全に治しましょうね?」
芙蓉の押しの強い不敵な笑顔に奈緒は目を瞬かせ困った笑みを浮かべた。芙蓉はさっそくマンツーマンの治療を思い描いてにやけている。
「奈緒さん、このレズ娘に襲われないように気を付けてね? と、わたしの大事な美貴ちゃんに預ける前に、あなたに憑いてる悪霊を祓っておかなくちゃね。
霊道は生者にとってけっしていい物ではないけれど、かといって積極的に悪い物でもないのよ。お互い交わらない方がいい、相容れない物、っていうだけでね。でもあなたの場合、明らかに霊道の流れが体内の霊体の流れを死者寄りに乱してしまっている。あなたに憑いている男の悪霊はそのあなたの霊体の乱れに外からくっついてきた物ね。女を男の欲望のはけ口としか考えないろくでもないクズ男の霊ね。さんざんあなたをいじめて、いい思いをして、そろそろ飽きたから最後に殺してしまおうと思っていたところよ。おあいにく様、このわたしに出会ったのが運の尽き」
紅倉の目がギラッと、赤く光った。奈緒は首から肩に衝撃を感じて後ろにのけぞり、ざわりと後ろに広がった気配になんだろうと振り返った。
「グゲゲゲゲゲゲ」
「きゃあっ」
奈緒はおぞましい物に悲鳴を上げた。後ろの空間に、体がビチャッと潰れて赤い糸を引いて飛び散った肉片だかなんだか分からない物が、赤い蜘蛛の巣に囚われた醜怪な毒虫を思わせる、黒い男の幽霊が浮いていた。醜悪なぶ男である。
その醜さに奈緒は戦慄し、腰が抜けたように床に座り込んだ。芙蓉が抱きかかえるように後ろに下がらせてやった。奈緒はショックがひどく、芙蓉にすがりつきながら、
「なんなの、あれ? あ、あんな物が、わたしに、ずっと、取り憑いていたって言うの?……」
と、おぞましさ悔しさで大きな目に涙を溢れさせた。その汚い物を見る目に男の霊はぶ然としたが、すぐに「ゲゲゲゲゲゲゲゲ」と汚い声で嘲笑った。奈緒は目を閉じ両手で耳を塞いだ。
「奈緒さん、ショックなのは分かるけど、しっかり見てなくちゃ駄目よ? そうよね、こいつはちょっと、たち悪すぎね」
不愉快そうな紅倉を威嚇するようにジロリと睨んだ男の霊は、紅倉に襲いかかろうとぐっと前のめりになったが、赤い糸に絡め取られそこから動くことが出来ず、暴れて、猿のように醜悪に怒った。
「フン。心霊アイドル紅倉美姫さまを知らないの? おまえみたいなザコ、八つ裂きにして無限地獄に叩き落とすのは簡単だけど…、ま、わたしが手を下すまでもないわね」
男の周囲に三つ四つと黒い玉が現れ、広がり、男は怯えた。黒い球体はまったく光を反射せず、それは、ブラックホールだった。ゆっくり精神をいたぶるように広がるブラックホールから逃れようと暴れる男は、追いつめられ、冷たい目で眺める紅倉に情けなく助けを求めた。紅倉は、いつものように突き放した。
「鬱陶しい。おまえの行くべき『天国』に行くがいい」
球が広がり、男の手足を吸い込んでいき、男は引き伸ばされ断末魔の叫びを上げながら、合体して大きな一つの球になったブラックホールに飲み込まれ、ブラックホールも収縮していき、消えた。
部屋はしんと静まり返り、
紅倉は大声を張り上げた。
「このマンションに不法滞在する霊たちに告げる! ここはあんたたちの『天国』ではないのよ! いつまでもこの世に執着してとどまっていると、あんたたちもいずれ今の男みたいな悪霊になってしまうわよ! そうなればあの世に行っても自分の望むような『天国』には行けなくなってしまうわよ! さっさと今までのツケを支払って、霊道に戻ってあの世に逝きなさい! いいわね!?」
スーッと息を吸い、ハアーッ……と疲れたように吐いた。振り返ると。
「とまあ、通知をしたし、残りもちゃっちゃと片づけよっか?」
芙蓉はしっかり奈緒を守るように抱きながら訊いた。
「奈緒さんはどうします? ここに一人で置いておいて、大丈夫ですか?」
奈緒は一人にされる恐怖に芙蓉にしがみついた。
「平気よ。他に居着いていた二、三匹も慌てて逃げていったし、しばらくは安全でしょう。後はあくまで奈緒さん自身の霊体質の問題ね」
奈緒は不安そうな顔をしたが、芙蓉が励ました。
「大丈夫ですよ。先生の言葉を信じてください。残りの部屋を回ったらもう一度様子を見に来ますから、ね?」
芙蓉はどうやらこの可愛らしい年上女性がすっかりお気に入りになったようで、是非お持ち帰りしたい様子だ。我が弟子に呆れながら紅倉は奈緒に教えてやった。
「あなたはこのまま今のお仕事をおやめなさい。お店にも行かないように。楽屋に置いてある私物なんてどうせ大した物ないでしょ? 昨日までのお給金はちゃんと口座に振り込まれるからご心配なく。お店がごねることはないはずです。あなたを食い物にしていた男は、裏でやってるやばいことがばれて警察に逮捕されます。あなたがつけ回されたり、仕返しにひどい目に遭わされたりということはありませんから安心して」
奈緒は驚いた顔で紅倉を見つめた。
「本当に?……そうなるんですか?…………」
紅倉はえへんと大威張りした。
「わたしを信じなさあーい。悪い霊たちにも彼らの利害関係で結ばれたネットワークがあるのよ。それを壊してやったから、それに甘えて悪事を働いていた人間なんて、あれよあれよとぼろが出て、今度は自分がこれまでのツケを支払わされるのよ。……ま、ちょっとした呪いをネットワークに送り込んでおいてやったから、確実にそうなるわね」
と、紅倉は悪戯っぽく舌を出した。
「あ・・・・・・・・・・、ありがとう…ございます・・・・・・・・・」
奈緒は素直にぽろぽろ大粒の涙をこぼした。現実のしがらみから解放されたばかりでなく、自分自身の精神の自由を取り戻したのだろう。
「それじゃ、わたしたちは行くわね。……こら、美貴ちゃん、行くわよ!」
ここぞとばかりに奈緒を抱いていた芙蓉がうっとりした笑顔を離して
「それじゃあ少し待っててくださいね?」
と、ようやく奈緒を手放した。
通路で見ていた平山は派手な悪霊退治を見せられてまたすっかり紅倉に感じ入ってしまっていた。
六階の残りの部屋のお札張りを済ませ、最上階七階に向かいながら紅倉は説明した。
「どんな仕事だろうとね、好きでやってる人はいると思うのよ。上昇志向の野望を持ってアグレッシブに取り組んでいる人もね。でも、あの人、奈緒さんはそういう人ではないわね。元々悪い男に騙されて嫌々始めた仕事に、今ではすっかり諦めてしまっていたのね。ずっと自分で自分の心を殺してきたのね。本当に、危ない瀬戸際だったわね」
「大丈夫です。これからはわたしがしっかり守ってあげますから」
「美貴ちゃんは下心見え見え。…あのままだったら、管理人さん?」
「はいっ、先生、なんでございましょう?」
「本当に洒落にならない自殺騒動が起きていたことでしょうね。そうしたら連鎖的にマンション全体が魔界化して、更にひどいことが次々起こることになっていたでしょうね」
「いやあ恐ろしいことでございますなあ! 先生のご登場は神の配剤でしたなあ。紅倉先生こそは天使様でいらっしゃいます」
「えっへん。まあねえ」
紅倉もいい気になって調子のいいことを言いながら、その勢いのまま七階の督促状もべたべた張りまくり、終わると、約束通り奈緒の部屋を訪れ、奈緒に案内させて三人でランチに出かけたのだった。