表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚の妻ですが、夫の甥だけは見捨てません  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/10

第九話 取り返そうとした手

 ハーグ様が、数人の供を連れて、ザイデ村に乗り込んできたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。

 ちょうど、アルヴィス様が、近隣の村への支払いの交渉に出かけていた、その隙を狙ったように。あとから思えば、それは、偶然ではなかったのだろう。屋敷側には、まだ、こちらの動きを伝える者が、残っていたのだ。


「ロナン様を、お迎えにあがった」と、ハーグ様は、馬を下りるなり、芝居がかった慇懃さで言った。「裁定の場に、跡継ぎが、こんな辺鄙な村に置かれているなど、外聞が悪い。正統な後継として、しかるべき屋敷で、お預かりする」


 白々しい、と思った。屋敷で、この子をどれだけ冷たく扱ってきたか。それを、私は、誰よりも近くで見てきた。


 ロナンが、私の背に、ぴたりと身を寄せた。小さな手が、私の上着を、痛いほど強く握りしめている。その震えを背中に感じながら、私は、できるだけ静かに、けれど一歩も引かずに、ハーグ様の前に立った。


「お断りします」と、私は言った。「この子の後見人は、私です。後見人の同意なく、ロナン様をどこかへ連れ去ることは、誰にも、できません。たとえ、ご親族であっても」


「同意?」と、ハーグ様は、嗤った。「そんなものは、すぐに、どうとでもなる」


 彼は、懐から、一枚の書面を取り出した。

「ここに、後見人の引き継ぎの届けがある。あんたから、屋敷の新たな後見人へ、ロナン様の後見を譲り渡す、という届けだ。あんたの署名も、ちゃんと、入っている」


 私は、その紙を見て、息を呑んだ。

 そこには、確かに、私の名が――いや、私の名を、誰かが真似て書いた、署名らしきものが、記されていた。けれど、それは、私の字では、なかった。三年、毎日帳面に書き続けてきた、自分の筆跡を、私が見間違えるはずがない。


「……これは、私の署名では、ありません」と、私は、声を絞り出した。

「何を言う。あんたの名が、書いてあるだろう」

「字が、違います」と、私は、まっすぐに、ハーグ様の目を見た。「私は、三年、この領の帳面を、一字一句、自分の手でつけてきました。その筆跡は、宗主家の役所にも、商人の控えにも、いくらでも残っています。この署名と、それを、突き合わせてください。一目で、わかります。――これは、偽造です」


 ハーグ様の顔から、すっと、血の気が引いた。

 彼は、署名さえあれば、後見など、いくらでも挿げ替えられると思っていたのだろう。けれど、皮肉なことに、私が三年、役に立たねばと怯えながら積み重ねてきた、おびただしい量の筆跡こそが、この偽造を、暴く証拠になっていた。本物が、これほど大量に残っている以上、偽物は、隠しようがない。


「コルム殿は、ご在席です」と、私は、続けた。「宗主家の監察官の前で、この届けを、お示しになりますか。後見人の同意を、偽って作る――それが、どれほどの罪か。ハーグ様なら、おわかりでしょう」


 ハーグ様の額に、汗が滲んだ。

 彼は、ここで、退くべきだった。けれど、焦りは、人から、退き際を奪う。自分の系統を、ヴァルダ家の領主に据える――その悲願が、もう、あと一歩のところまで来ていると、信じ込んでいたのだろう。彼は、なりふりを、構わなくなった。


「……問答無用だ。おい、その子を、連れていけ」

 供の男たちが、ロナンへ、手を伸ばした。


「いやだ!」

 その瞬間、私の背中で、ロナンが、叫んだ。

 それは、屋敷の隅で、ずっと息を殺してきた子が、生まれて初めて、腹の底から振り絞った、声だった。子どもは、私の上着をつかんでいた手を離すと、ハーグ様の前に、ぱっと、自分から進み出た。小さな体を、精いっぱい、突っ張らせて。


「ぼくは、いかない。ぼくは、ミレイアと、おじさまと、いっしょにいる!」

 その声に、伸ばされた供の手が、思わず、止まった。


「ぼくの、りょうちだ。ぼくが、まもるって、きめたんだ。だから……だから、かってに、つれていくな!」


 幼い、たどたどしい言葉だった。けれど、それは、まぎれもなく、ヴァルダ領の正統な跡継ぎの、意思の表明だった。両親を失い、誰にも望まれないと思い込んでいた子が、いま、自分の足で立ち、自分の領と、自分の居場所を、守ろうとしている。

 私は、その小さな背中を見つめながら、不覚にも、涙が、こみ上げた。


 そして、その一部始終を――村の辻に出てきていた、コルム殿が、しかと、見届けていた。


「……ハーグ殿」と、コルム殿が、静かに歩み出た。「いま、私は、たいへんなものを見せてもらった。後見人の同意を偽った、偽造の届け。それを盾にした、跡継ぎの、力ずくの連れ去り。しかも、当の跡継ぎご本人が、はっきりと、拒んでおられる。――これを、宗主家への、正式な報告に、加えさせてもらう」


 ハーグ様は、もう、何も言えなかった。

 退くべき時に退かず、最後の最後で、いちばん見られてはならない手を、いちばん見られてはならない相手の前で、晒してしまった。横領に、後見の偽造、跡継ぎの略取未遂。それらが、宗主家の監察官の目の前で、すべて、つながってしまったのだ。供の男たちは、気まずそうに目を伏せ、ハーグ様は、青ざめた顔で、村を後にするしか、なかった。


 その夜、交渉から戻ったアルヴィス様は、昼間の出来事を聞くと、しばらく、言葉を失っていた。

 それから、彼は、眠ったロナンの寝顔を、長いこと、見つめた。


「……この子が、自分で、立ったのか」

「ええ」と、私は頷いた。「私が、何かを言うより、先に。あの子が、自分の言葉で、自分の場所を、守りました」


 アルヴィス様は、そっと、ロナンの髪を撫でた。その手つきは、もう、屋敷にいた頃の、遠慮がちなものでは、なかった。


「君が、この三年、この子に、何を与えてきたのか。いま、はっきりと、わかった気がする」と、彼は、低く言った。「怯えるだけだった子が、自分の意思で、声を上げられるようになった。それは、君が毎日、この子の言葉を、ちゃんと聞いてきたからだ」


 彼は、立ち上がると、私の方へ、向き直った。

 囲炉裏の火が、その真剣な横顔を、赤く照らしていた。


「ミレイア。裁定が終わったら――いや、その前に、君に、言っておきたいことがある」

 胸が、とくん、と鳴った。

「私は、君を、形式だけの妻の座に、戻したいのではない。世継ぎが育つまでの、つなぎの妻に、また、してしまうのでもない。――そうではなくて」

 彼は、一度、言葉を切り、それから、まっすぐに、私を見た。


「対等な相手として、これからの長い時間を、君と、ロナンと、三人で――本当の家族として、生きていきたい。そう、願っている」


 息が、止まった。

 ずっと、役目で結ばれただけの関係だった。情を交わすことなど、決して許されないと思っていた、白い結婚。その相手が、いま、形ではなく、心で、私を求めている。


 けれど――私は、すぐには、頷けなかった。

「……お返事は」と、私は、震える声で言った。「裁定が、終わってから。すべてが、片づいて、私が、何にも怯えず、自分の心と、まっすぐ向き合えるように、なってから。――それまで、待っていただけますか」


 逃げたわけでは、なかった。ただ、この、生まれて初めて差し出された、あたたかいものを、恐れや混乱の残ったままの心で、受け取りたくなかった。きちんと、まっさらな気持ちで、自分の意思で、頷きたかった。


 アルヴィス様は、私のその言葉の意味を、正しく、汲み取ってくれた。

「ああ」と、彼は、やわらかく笑った。「いくらでも、待つ。君が、君自身の心で、答えを出せるまで」


 明日は、いよいよ、宗主家の裁定の場が、開かれる。

 横領も、偽造も、略取も、すべての糸が、明るみに出る。そして、ロナンの相続と、私の後見が、正式に、定められる。


 長い、戦いだった。けれど、もう、終わりが、見えていた。

 眠るロナンの、穏やかな寝息を聞きながら、私は、明日のために、最後の証を、そっと、胸に抱きしめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ