第8話 『数字は嘘をつかない』
翌朝、ラグナ村の空気は昨日よりも静かだった。
不信も怒りも消えてはいない。
だが、動きは止まっていない。
エリシアは集会小屋に大きな板を三枚並べた。
「今日から、これを使います」
村人たちが集まる。
一枚目の板には、収穫量。
二枚目には、借金と返済。
三枚目には、備蓄量。
大きな字で、誰にでも読めるように。
「数字を、全員で共有します」
ざわめき。
「隠しません。誤魔化しません」
ガイアが板を見つめる。
「……恥を晒すようなもんだな」
「はい」
エリシアは頷く。
「でも、恥を隠せば、もっと大きな恥になります」
ナディアが腕を組む。
「面倒くせぇが、理屈は通ってる」
エリシアは、昨日修正した見積もりを書き出す。
南の畑の減収分。
保水対策による回復予測。
共同労働による収穫増加見込み。
最悪ケース。
最良ケース。
すべて、書く。
「最悪の場合、今年の備蓄は一袋分足りません」
空気が重くなる。
「最良の場合、半袋分余ります」
「半袋じゃ足りねぇ」
若者が呟く。
「はい。足りません」
エリシアは、迷わず認める。
「だから、商人との契約を見直します」
「また商人か」
ガイアが顔をしかめる。
「交渉します。利子の再計算を求めます」
「無理だ」
「無理でも、やります」
エリシアは板の三枚目を叩く。
「今は数字がある」
その言葉に、空気が少しだけ変わる。
昨日までは、感覚だった。
今日は、数字だ。
「騙されているなら、証明できます」
ナディアがにやりと笑う。
「嬢、やっと武器持ったな」
「武器ではありません」
エリシアは首を振る。
「鏡です」
「鏡?」
「現実を映す鏡です」
サラが板を見上げる。
「これ、なに?」
「パンの未来」
サラは首を傾げるが、笑う。
その笑顔に、村人の何人かが視線を落とす。
エリシアは続ける。
「今日から、毎日この板を更新します」
「面倒だ」
「はい」
「続くのか」
「続けます」
即答。
沈黙。
やがて、若者の一人が言った。
「……じゃあ、俺が計算覚える」
エリシアは目を見開く。
「本当ですか?」
「どうせ暇な時間もあるしな」
照れ隠しのようにそっぽを向く。
ナディアが鼻で笑う。
「じゃあ運搬隊も一人出す」
ガイアが低くうなずく。
「村長としても、覚える」
小さな変化。
だが、確かな前進。
エリシアの胸に、静かな熱が灯る。
数字は、嘘をつかない。
だが、人が数字を持てば、世界は少しだけ変わる。
その日の午後、南の畑で保水対策が始まる。
浅い溝を掘り、藁を敷き詰める。
落ち葉を混ぜ、踏み固める。
地道な作業。
汗が流れる。
だが、昨日とは違う。
誰も、完全には諦めていない。
作業の合間、ナディアが小声で言う。
「嬢」
「はい」
「もし干ばつが来なかったら?」
問いは、軽いようで重い。
エリシアは鍬を止める。
「そのときは、笑われます」
「笑われて終わりか」
「いいえ」
空を見上げる。
「備蓄が増えただけです」
ナディアが吹き出す。
「損はねぇってことか」
「はい」
その理屈は、単純だが強い。
数字の上では、損はない。
だが、心の負担はある。
それでも。
「私は、笑われる覚悟があります」
ナディアはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……本当に悪役令嬢か?」
「そう呼ばれています」
「違うな」
ぽつりと。
「泥役令嬢だ」
思わず、エリシアは笑った。
久しぶりに、心から。
夕暮れ。
板の数字が更新される。
収穫予測、少しだけ上方修正。
半袋分の不足が、三分の一袋分に縮まる。
小さな変化。
だが、確かに前進。
そのとき、遠くの空で、低い雷鳴が響いた。
皆が空を見上げる。
黒い雲が、わずかに集まり始めている。
だが――雨は、まだ落ちない。
期待と不安が入り混じる。
エリシアは板を見つめる。
数字は動いた。
だが、自然は動かない。
本当の試練は、まだこれからだ。




