第4話 『帳簿のない村』
翌朝、ラグナ村の空は白くかすんでいた。
雲はある。だが厚みがない。光を遮るだけで、潤いを含んでいない空だ。
エリシアは集会小屋の前に立ち、板を一枚、壁に立てかけた。
即席の掲示板だ。
手帳と筆記具を手に、振り返る。
「全員、集まってください」
昨夜の宣言の余波は消えていない。村人たちは不満を抱えたまま、それでも距離を取りつつ集まってくる。
子供を抱えた母親、腕組みをした男たち、苛立ちを隠さない若者。
村長ガイアも、渋い顔で立っている。
「まず、借金の額を確認します」
ざわ、と空気が揺れる。
「何度も言うが、分からん」
「分からないままでは、商人の言い値です」
エリシアは板に大きく数字を書き始める。
――今年の収穫量。
「おおよそで構いません。畑ごとに」
渋々、農民たちが口を開く。
「うちは去年の半分だ」
「うちは三分の二くらいか」
断片的な情報を拾い、書き留めていく。
次に、商人への返済量。
「麦袋で何袋返しましたか」
「十袋」
「いや、十五だ」
「金貨での支払いは?」
沈黙。
「……覚えていない」
エリシアは頷く。
覚えていないのではない。覚えられないのだ。
借りては返し、足りずにまた借りる。積み重なった曖昧な数字。
板の上に、大まかな計算を書き出す。
収穫総量から、返済分を引き、種籾分を引き、生活消費分を引く。
残る数字は、ほとんどない。
「……足りていない」
誰かが呟く。
エリシアは静かに言う。
「毎年、足りない分を借りていますね」
ガイアが目を伏せる。
「仕方ないだろう。天候が悪い」
「天候だけではありません」
エリシアは、計算をさらに進める。
「商人は、前借り金に利子をつけています」
「利子だと?」
「返済が遅れた分、上乗せされています。契約書はありますか」
村人たちは顔を見合わせる。
やがて一人の男が、小さく手を挙げた。
「……ある」
差し出されたのは、汚れた羊皮紙。
エリシアは目を走らせる。
小さな文字で書かれた契約。
利率、返済期限、遅延時の追加負担。
「三重取りです」
「何だと?」
「収穫の一定割合、金貨での返済、さらに遅延利子」
板に図を書き、説明する。
「このままでは、永遠に抜けられません」
ざわめきが、怒りへと変わる。
「騙されていたのか」
「いや、昔からこうだ」
エリシアは手を上げる。
「怒るべき相手は商人だけではありません」
視線が一斉に向く。
「私たちは、記録していませんでした。確認していませんでした」
静寂。
「数字を知らないままでは、守れません」
ガイアが苦い顔をする。
「記録など、学のある者しかできん」
「できます」
エリシアは断言する。
「私が教えます」
そのとき、後方から低い声が響いた。
「教えるだと?」
振り返ると、大柄な女が腕を組んで立っていた。
日に焼けた肌、鋭い目。肩に縄を巻き、荷車を引く筋肉質の腕。
「ナディアだ。運搬隊をまとめてる」
ガイアが紹介する。
ナディアはエリシアをじろりと見下ろした。
「嬢ちゃん、帳簿で腹は膨れねぇぞ」
昨日と同じ言葉。
だが声色は違う。試すような響き。
「はい。ですが、帳簿がなければ、ずっと腹は膨れません」
エリシアは目を逸らさない。
ナディアは数秒、黙って見つめた後、鼻を鳴らした。
「……面白ぇ」
ざわ、と空気が変わる。
「じゃあ聞くが、今年の種籾はどれだけ残ってる」
ガイアが答える。
「倉庫に三袋」
ナディアが吐き捨てる。
「足りねぇ」
エリシアは板に書く。
三袋。来年必要な量。
計算する。
「最低五袋は必要です」
「二袋足りないじゃねぇか」
「はい」
「どうする」
エリシアは、一瞬だけ言葉に詰まる。
王都では、備蓄法案を書くだけで済んだ。
ここでは違う。
目の前に、足りない二袋がある。
「共同で畑を再整備し、収穫量を増やします」
若者が笑う。
「そんな簡単に増えるかよ」
「簡単ではありません」
エリシアは静かに言う。
「ですが、何もしなければ減ります」
そのとき、昨日助けた少女――サラが、母親の後ろから顔を出した。
「……また、パンくれる?」
無邪気な問い。
胸が痛む。
エリシアは膝を折り、目線を合わせる。
「今日は、少しだけ」
サラの目が輝く。
だが、エリシアは続ける。
「でも、明日からは一緒に働きましょう」
「……はたらく?」
「畑を整えて、来年もっとたくさんパンを作るの」
サラは首をかしげる。
理解はしていない。
だが、エリシアの目を見て、小さく頷いた。
その仕草に、何人かの村人が息を呑む。
ナディアが腕を組んだまま言う。
「嬢ちゃん、本気なんだな」
「本気です」
「逃げねぇな?」
「逃げません」
短い沈黙。
風が強く吹き、板が揺れる。
ナディアは、ふっと笑った。
「いいだろう。運搬隊は協力してやる」
ざわめきが広がる。
「おい、ナディア!」
「本気か?」
「本気だ」
彼女はエリシアを見下ろす。
「ただし、失敗したら責任は取れ」
その言葉に、エリシアはまっすぐ頷く。
「取ります」
即答だった。
それが軽い約束ではないと、彼女自身が一番よく分かっている。
責任とは、数字の上だけではない。
命だ。
風が再び吹く。
空は、相変わらず白い。
雨の匂いは、しない。
だが、村の空気はわずかに変わった。
怒りと不信の中に、ほんの少しだけ――動きが生まれた。
帳簿のない村に、最初の数字が刻まれる。
それが救いになるのか、破滅の始まりになるのか。
まだ、誰にも分からない。




