第23話 『選べない夜』
その夜、ラグナ村に風はなかった。
静まり返った空気の中、虫の声だけが響く。
エリシアは集会小屋に一人、灯りをともしていた。
板の前に立ち、何度も数字を書き直す。
倍返済。
修正後目標。
王都での資金調達見込み。
失敗時の破綻予測。
どの線を引いても、完全な正解はない。
「……足りない」
静かな独り言。
レオンの寝顔が、脳裏に浮かぶ。
あの真っ直ぐな目。
制度を信じた若者。
その未来が、今は寝台に伏している。
机に手をつき、うつむく。
涙が、ぽたりと落ちる。
「……私は、何を守っているの」
数字か。
村か。
誇りか。
分からなくなる。
扉が静かに開いた。
ミレイアだ。
「まだ起きているのですか」
「はい」
声がかすれる。
ミレイアは板を見る。
「目標値を下げましたね」
「はい」
「返済不能の可能性が上がる」
「はい」
「合理的ではありません」
「分かっています」
沈黙。
「それでも?」
「人を壊したくありません」
静かな告白。
ミレイアの瞳が、わずかに揺れる。
「……兄がいました」
唐突な言葉。
エリシアが顔を上げる。
「干ばつの年、飢えました」
淡々とした口調。
「私は助かりました。兄は、死にました」
空気が止まる。
「施しは足りなかった。制度もなかった」
ミレイアは板を見つめる。
「だから私は、感情を排しました」
「……」
「感情は、判断を鈍らせる」
その言葉の裏に、痛みがある。
「でも」
エリシアは小さく言う。
「感情がなければ、兄を悼めなかった」
ミレイアは黙る。
長い沈黙。
「あなたは、甘い」
「はい」
「だが」
言葉が途切れる。
「……間違いとは言い切れない」
小さな変化。
敵でも味方でもない立場が、少し揺れる。
ミレイアは背を向ける。
「王都へ行くなら、紹介状を書きます」
エリシアが目を見開く。
「なぜ」
「監査官として、合理的だからです」
振り向かない。
「この村は、例外かもしれない」
その言葉が、灯りの中に落ちる。
扉が閉まる。
エリシアは一人、板の前に立つ。
例外。
それは希望か、危険か。
夜が深まる。
今度は、静かに扉が開いた。
リリアナだ。
「眠れませんか」
「はい」
リリアナは隣に立つ。
「神に祈りますか」
「祈りません」
「では、何をしますか」
「……選びます」
リリアナは微笑む。
「神は、選びません」
「人は、選びます」
二人は、しばらく黙って板を見つめる。
「あなたは、怖いのですね」
リリアナが言う。
「はい」
正直に答える。
「間違えるのが」
「間違えます」
リリアナは即答する。
「人ですから」
静かな慰め。
「でも、あなたは逃げない」
「逃げません」
リリアナは小さく頷く。
「なら、私は祈ります」
「何を」
「あなたが、壊れないように」
胸が、じわりと熱くなる。
夜は長い。
選択は重い。
正解はない。
それでも。
エリシアは板の前に立ち続ける。
明日、村に告げる決断を。
まだ、言葉にできないまま。




