第2話 『奪われた名前』
夜明け前、馬車は王都を完全に離れた。
石畳は土道へと変わり、揺れは容赦なくなる。豪奢なクッションなどない。薄い座席に伝わる衝撃が、追放の現実を身体に刻んだ。
エリシアは膝の上の小箱を見下ろす。
中にあるのは、替えの衣服と、簡素な筆記具、それから一冊の小さな手帳だけ。
王都の公式帳簿は持ち出せなかった。だが、必要な数字は記憶している。
降雨量、収穫量、備蓄率、南部の地下水位の推移。
数字は裏切らない。
だが、人は――どうだろう。
「ヴァルドール家の名は、本日をもって王都より抹消される」
昨夜、父がそう告げた時の声が、耳に残っている。
怒りも罵倒もなかった。ただ、疲れきった声だった。
家を守るための切り捨て。
それは理解できる。
理解できるからこそ、痛い。
馬車が止まった。
「ここから先は、護衛はつきません」
御者が言う。
「辺境までは、あと三日ほど」
「ありがとう」
エリシアは微笑み、馬車を降りた。
王都の華やかなドレスはもうない。簡素な旅装。金糸の刺繍も、宝石もない。
鏡はないが、分かる。
自分はもう、“令嬢”には見えない。
道端の水たまりに映る姿を見下ろす。
編み込んだ金髪。質素な外套。泥に汚れた裾。
それでも、背筋だけは伸ばす。
名前を奪われても、姿勢までは奪われない。
街道沿いの宿に立ち寄ると、ひそひそ声が聞こえた。
「あれが……」
「穀物を止めた悪女らしい」
「民を飢えさせるつもりだったとか」
悪役令嬢。
その言葉が、今度ははっきりと届く。
エリシアは振り向かない。
釈明もしない。
ただ、宿の主人に銀貨を差し出す。
「一晩、お願いします」
主人は迷いながらも受け取った。
金は、まだ効力を持つ。
だが、信用はどうだろう。
部屋は狭く、粗末だった。
王都の寝台とは比べ物にならない。窓も小さく、風が入り込む。
エリシアは外套を脱ぎ、机に向かう。
手帳を開く。
白紙。
王都で書き連ねた改革案も、法案草稿もない。
何もない。
だからこそ、書く。
南部干ばつ予測――三年以内六割。
商人備蓄率――王都平均七%。
安全基準は二十%。
足りない。
圧倒的に。
指が震える。
それは恐怖ではない。
焦燥だ。
「間に合うかしら……」
誰にともなく呟く。
もし自分の予測が外れれば、ただの杞憂だったことになる。
だが、当たれば――。
夜が更ける。
窓の外で風が鳴る。
乾いた音。
翌朝。
宿を出るとき、幼い子供が母親に手を引かれて通り過ぎた。
「ねえ、あの人だれ?」
「見ちゃいけません」
母親は小声で言う。
「あの人は、パンを止めた人よ」
エリシアの足が止まる。
パンを止めた人。
それが、今の自分の名前だ。
胸が締めつけられる。
けれど。
足を止めたままではいられない。
種籾を守らなければ、来年のパンはない。
今日の優しさが、明日の死を招くこともある。
理解している。
それでも。
胸が痛むのは、消えない。
街道を歩き出す。
御者はもういない。ここからは一人だ。
風が強い。
空を見上げる。
雲は薄く、広がっている。
湿り気のない、白い雲。
「……やっぱり、降らない」
ぽつりと呟く。
遠く、南の方角。
見えない土地で、土はひび割れているだろう。
その光景を想像すると、足が自然と速くなる。
悪役令嬢と呼ばれてもいい。
冷たいと罵られてもいい。
だが――。
「飢えさせない」
小さな決意が、胸の奥で固まる。
名前を奪われても。
地位を奪われても。
やるべきことは、変わらない。
風の向こう、はるか先に広がる辺境の大地。
そこが、彼女の新しい戦場になる。
そしてその頃、王都では。
「南部の穀物価格が上昇しています」
商人ギルドの一室で、若き副頭取カイル・レンフォードが報告を受けていた。
「原因は?」
「降雨不足との噂が」
カイルは無言で窓の外を見る。
王宮の塔が遠くに見える。
「……例の令嬢の予測か」
唇の端がわずかに上がる。
「市場は噂で動く。価格を上げろ」
命令は短い。
数字が動き出す。
王都の倉庫の扉が、静かに閉まる。
一方、街道を歩く一人の女は、その動きを知らない。
だが確実に、同じ未来を見ている。
干ばつは来る。
そのとき、誰が笑い、誰が泣くのか。
エリシアは歩みを止めない。
奪われた名前の代わりに。
彼女は、自分の役目を選んだのだから。




