第16話 『パンの行列』
翌朝、ラグナ村の中央広場には長い列ができていた。
教会から届いたパンを求める村人たちの列だ。
白い修道服のリリアナは、一人ひとりに微笑みながらパンを手渡している。
「主の祝福がありますように」
柔らかな声。
受け取った者は、安堵の表情を浮かべる。
今日の空腹は、確実に満たされる。
一方で、集会小屋の前に立つ板の前は、静かだった。
エリシアは、数字を書き直す。
備蓄、微増。
だが、労働参加率が下がっている。
午前中の作業人数が、明らかに減った。
「嬢」
ナディアが近づく。
「南区画、今日来てねぇやつが多い」
「……分かっています」
数字が、証明している。
パンの列に並ぶ時間は、畑に立つ時間を奪う。
仕方がない。
空腹を前に、未来は遠い。
エリシアは板を見つめたまま言う。
「今日の作業は、縮小します」
「縮小?」
「人数が足りません」
ナディアが舌打ちする。
「このままだと、来年の倍は夢だぞ」
「分かっています」
だが、止められない。
リリアナが近づく。
「責めるおつもりですか」
「いいえ」
エリシアは首を振る。
「感謝しています」
「ですが?」
「制度が揺らぎます」
リリアナは、パンを手渡しながら言う。
「揺らぐのは、制度が弱いからです」
「制度は、人が支えます」
「人は、今を支えます」
平行線。
そのとき、若者の一人がエリシアに詰め寄る。
「嬢、正直に言えよ」
「何をですか」
「教会のパンがなかったら、今どうなってた?」
沈黙。
正直に答えるしかない。
「……もっと苦しかった」
若者は唇を噛む。
「じゃあ、あっちの方が正しいんじゃねぇのか」
その言葉は、刃だ。
エリシアの胸に刺さる。
だが、目を逸らさない。
「今日だけなら、そうです」
「今日だけじゃなくて、今だ!」
「今を積み重ねるのが、明日です」
若者は拳を握り、やがて視線を落とす。
リリアナが静かに言う。
「あなたは、強い」
エリシアは首を振る。
「弱いです」
「弱いから、帳簿に縋る」
その言葉に、エリシアは一瞬息を呑む。
否定できない。
数字は、拠り所だ。
「祈りに縋るのと、何が違うのですか」
静かに問い返す。
リリアナの微笑みが、わずかに揺れる。
「祈りは、心を支えます」
「数字もです」
遠くで、ミレイアがそのやり取りを見ていた。
「感情の争奪戦……」
小さく呟く。
午後、畑の作業は進まない。
人手が足りない。
エリシアは自ら鍬を握る。
ナディアが隣に立つ。
「嬢、体壊すぞ」
「壊れません」
「強がるな」
「強がりです」
汗が流れる。
土は乾いたまま。
そのとき、広場から声が上がる。
「もう一袋、追加です!」
教会の荷車が到着した。
村人たちが再び列を作る。
エリシアは鍬を止め、板を見る。
備蓄、さらに微増。
だが、労働参加率、さらに低下。
数字は正直だ。
制度は、揺れている。
夕方、村人たちが集まる。
ガイアが口を開く。
「このままでは、来年が危うい」
「でも、今がきつい」
「どうする」
問いが、広場を満たす。
エリシアは一歩前に出る。
「選び直します」
ざわ、と空気が揺れる。
「選び直す?」
「施しを受けながら、作業時間を固定します」
「固定?」
「午前は畑。午後は施しの列」
ナディアが眉を上げる。
「できるのか」
「やります」
リリアナが静かに言う。
「無理を強いるのですか」
「無理を、分配します」
エリシアは村人たちを見渡す。
「楽な道はありません」
胸が痛む。
「でも、全員でなら、少しは軽くなります」
沈黙。
やがて、若者の一人が言う。
「……午前、やる」
別の者が続く。
「午後に並ぶ」
ナディアが笑う。
「結局、賭けだな」
「はい」
エリシアは頷く。
「賭け続けます」
リリアナは、その様子を見つめる。
微笑みは変わらない。
だが、その瞳は真剣だ。
祈りと帳簿。
どちらが勝つのか。
それはまだ、分からない。
空は曇り、雷鳴が遠くで響く。
雨は、落ちない。
だが、選択は重くなっていく。
ラグナ村は、揺れながら前へ進んでいた。




