第14話 『祈りと帳簿』
教会のパンは、板の「備蓄」欄に数字として加えられた。
小さな増加。
だが、その意味は軽くない。
ラグナ村の広場では、村人たちの視線が二つの方向へ分かれていた。
白い修道服のリリアナ。
泥の付いた外套のエリシア。
祈りと帳簿。
どちらが正しいのか、まだ誰にも分からない。
翌朝、リリアナは村の中央に小さな祈祷台を設けた。
「主は、努力する者を見捨てません」
柔らかな声。
村人たちは自然と集まる。
疲れた心には、慰めが必要だ。
エリシアは板の前で数字を書き直していた。
備蓄量、労働参加率、保水対策の進捗。
だが、祈りの声が耳に入る。
ナディアが近づく。
「嬢、放っといていいのか」
「いいえ」
「止めねぇのか」
「止めません」
エリシアは振り返る。
「祈りは、悪ではありません」
「じゃあ?」
「祈りだけでは、足りません」
その言葉は、誰に向けたものか。
自分か。
リリアナか。
そのとき、サラが祈祷台の前で手を組んでいた。
「神様、雨をください」
純粋な願い。
エリシアの胸が、痛む。
リリアナがサラの頭に手を置く。
「信じなさい。主は聞いておられます」
その光景を、ミレイアが遠くから見ていた。
「感情が、村をまとめている」
冷静な観察。
だが、否定はしない。
午後、エリシアは集会小屋で新たな計画を提示した。
「近隣村へ接触します」
ガイアが眉をひそめる。
「穀倉同盟の第一歩です」
「同盟?」
「情報共有、共同交渉、共同備蓄」
ナディアが腕を組む。
「人手は足りるのか」
「足りません」
「足りねぇのに広げるのか」
「広げなければ、来年倍は払えません」
板に、新しい欄を作る。
“同盟候補”。
村人たちがざわめく。
「よそ者に頼るのか」
「頼るのではありません」
エリシアは静かに言う。
「対等に組みます」
リリアナが小屋に入ってきた。
「他村も困窮しています」
「知っています」
「なら、施しの拡大を王都に要請します」
静かな衝突。
「施しは一時的です」
「一時的でも、救われる命があります」
「制度がなければ、繰り返します」
ミレイアが口を開く。
「お二人とも」
全員が振り向く。
「王都は、施し拡大案を本格検討中です」
空気が凍る。
「干ばつの噂は広がっています。民衆の不安は限界です」
「なら備蓄を」
エリシアが言いかける。
「中央備蓄は不足しています」
ミレイアは冷静に告げる。
「だから施しで鎮静する」
ラグナ村は、小さな点にすぎない。
王都の政治は、もっと大きい。
「あなたの村が成功すれば、証明になります」
ミレイアがエリシアを見る。
「失敗すれば?」
「例外として切り捨てられる」
重い言葉。
ナディアが低く呟く。
「結局、賭けか」
「賭けです」
エリシアは認める。
「ですが、数字は嘘をつきません」
リリアナが静かに言う。
「神も、嘘をつきません」
二人の視線が再び交わる。
思想は交わらない。
だが、同じ村を見ている。
夕方、再び空が曇る。
今度は、風が強い。
砂が舞い上がる。
サラが目をこする。
「目がいたい……」
エリシアは外套で覆う。
リリアナは祈りを続ける。
ミレイアは空を測るように見上げる。
そして。
強い風が、畑の一角をなぎ倒した。
南区画の麦が、さらに倒れる。
村人たちが悲鳴を上げる。
エリシアは走る。
倒れた麦を起こそうとするが、根が浅い。
「……間に合わない」
胸が締めつけられる。
リリアナが息を呑む。
「主よ……」
ミレイアは静かに呟く。
「これが、現実です」
風はやがて止んだ。
だが、被害は残る。
板の数字を書き直す。
不足、拡大。
倍返済の壁が、さらに高くなる。
エリシアは、ペンを握る手を止めない。
涙が滲む。
だが、書き続ける。
祈りと帳簿。
どちらも、無力かもしれない。
それでも。
止まらない。
干ばつは、確実に近づいている。




