第13話 『感情と制度』
白い修道服の女は、穏やかな足取りで広場へと進んだ。
手にした籠には、焼きたてのパンが並んでいる。
その香りが、空腹を刺激する。
「主の慈悲を、皆さまに」
柔らかな声。
村人たちの視線が、一斉に向く。
サラが目を輝かせる。
「パン……!」
母親が思わず息を呑む。
エリシアは、ゆっくりと前へ出た。
「中央教会の司祭、リリアナ・セントレイと申します」
女は優雅に一礼する。
銀に近い白髪が、風に揺れる。
「ラグナ村が困窮していると聞きました」
その笑みは、偽りがない。
善意そのもののような顔。
エリシアは静かに言う。
「ありがとうございます。ですが――」
リリアナは、彼女の言葉を遮らない。
ただ、村人たちへ向き直る。
「これは、無償です」
その一言で、空気が変わる。
無償。
条件なし。
働かなくても、今すぐ食べられる。
ナディアが小さく舌打ちする。
「来やがったな」
村人の一人が、籠へ手を伸ばしかける。
エリシアの胸が締めつけられる。
否定すれば、冷酷に見える。
受け入れれば、制度は揺らぐ。
リリアナが、エリシアを見つめる。
「施しは、罪ですか?」
優しい問い。
だが、鋭い。
「いいえ」
エリシアは首を振る。
「罪ではありません」
「なら、なぜ止めるのです?」
「止めていません」
静かに答える。
「ですが、条件があります」
ざわめき。
「条件?」
リリアナが首を傾げる。
「共同備蓄に組み込みます」
「……それは施しではありません」
「はい」
エリシアは認める。
「これは、制度です」
村人たちの間に、迷いが広がる。
今すぐのパンか。
未来のパンか。
リリアナは穏やかに言う。
「主は、見返りを求めません」
その言葉に、サラの母が涙ぐむ。
「神様……」
エリシアの胸が痛む。
自分は神ではない。
奇跡も起こせない。
できるのは、計算だけだ。
「私は、見返りを求めます」
はっきりと言う。
村人たちの視線が刺さる。
「働くこと。備えること。守ること」
「冷たいのですね」
リリアナは悲しげに微笑む。
「子供たちの空腹より、帳簿が大事ですか」
静かな一撃。
エリシアは一瞬、言葉を失う。
だが、逃げない。
「帳簿は、子供を守るための道具です」
「今、守れていません」
リリアナの言葉は事実だ。
サラはまだ痩せている。
畑は枯れかけている。
エリシアは深く息を吸う。
「今日のパンを配り続ければ、来年はありません」
「来年が来る保証は?」
「ありません」
「なら、今日を救うべきです」
静かな応酬。
村人たちの心が、揺れる。
ナディアが一歩前に出る。
「嬢」
「はい」
「どうする」
問われる。
選べ、と。
エリシアはリリアナを見る。
善意の塊のような司祭。
敵ではない。
むしろ、正しい。
だからこそ、厄介だ。
「受け取ります」
ざわ、と空気が動く。
リリアナの目がわずかに輝く。
「ただし」
エリシアは続ける。
「共同備蓄に入れます」
リリアナの表情が初めて揺れた。
「それは、施しではありません」
「はい」
「主の慈悲を制度に組み込むと?」
「はい」
静かに、しかし揺るがず。
「善意は、一度で終わります」
村人たちが息を呑む。
「制度にすれば、続きます」
沈黙。
風が吹く。
パンの香りが、広場に漂う。
リリアナはしばらく考え、やがて言った。
「あなたは、神を信じていますか」
エリシアは迷わない。
「信じていません」
ざわめき。
「ですが、人は信じています」
リリアナの瞳が細くなる。
「人を信じます」
静かな言葉。
リリアナは籠を見下ろす。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……では、今回は従いましょう」
村人たちがざわめく。
「ただし」
彼女は続ける。
「次は分かりません」
微笑みは消えていない。
だが、瞳の奥に別の光が宿る。
思想は、平行線だ。
ミレイアが少し離れた場所で、その様子を見ていた。
「感情を排除しない制度……」
小さく呟く。
「危うい」
だが、完全に否定もできない。
広場では、パンが分けられ始める。
今回は、板に数字が書き込まれる。
備蓄、微増。
ほんのわずか。
だが、確実に。
エリシアは空を見上げる。
雨は降らない。
だが、嵐は近づいている。
制度と感情。
どちらが、村を守るのか。
答えは、まだ出ていない。




