第11話 『王都からの視線』
ラグナ村に雨は降らない。
だが、王都では別のものが降っていた。
書類だ。
王城の財務局、最奥の監査室。
高い天井と、整然と並ぶ棚。机の上には束ねられた報告書が山のように積まれている。
「……ラグナ村」
黒髪の女が、淡々と呟いた。
ミレイア・クロスフォード。
王都財務局監査官。
冷ややかな灰色の瞳が、一枚の報告書を読み進める。
「収穫予測修正三回。共同備蓄開始。商人契約の利率再交渉……」
無駄のない文字で書かれた現地報告。
最後に記されている名前。
エリシア・ヴァルドール。
「断罪された元穀物制度改革官、か」
ペン先が止まる。
三年前、王都で物議を醸した改革案。
市場介入、備蓄強化、施し縮小。
民衆は反発し、王は沈黙し、王子は切り捨てた。
あれは、政治的に妥当だった。
少なくとも、そう判断した。
だが。
「干ばつ予測、的中率上昇……」
南部の降雨量推移を示す別紙を開く。
確かに、減っている。
統計は、冷酷だ。
ミレイアは椅子にもたれた。
「感情で制度を動かした愚か者、と思っていたが」
窓の外を見る。
王都の空は、雲が厚い。
だが、雨は降っていない。
「現地視察を申請する」
静かに決める。
彼女は、数字を疑わない。
だが、数字の裏にいる“人”は、信用しない。
――確かめる必要がある。
*
ラグナ村。
エリシアは板の前で、数字を書き換えていた。
収穫予測、再修正。
南の畑は半壊。
中央区画は持ち直しつつある。
「嬢、また減ったのか」
ナディアが覗き込む。
「はい」
「笑えねぇな」
「笑えません」
だが、声は落ち着いている。
村人たちは、板を見つめる。
もう怒鳴らない。
数字に慣れ始めている。
「来年倍だろ」
若者が言う。
「今年この調子で足りるのか」
「足りません」
エリシアは即答する。
ざわめき。
「足りませんが、ゼロではありません」
板を叩く。
「半袋分、縮まりました」
小さな前進。
だが確かな前進。
そのとき、村の入り口に馬の蹄の音が響いた。
全員が振り向く。
整った装束の馬車。
王都の紋章。
空気が張り詰める。
扉が開き、一人の女が降り立つ。
黒髪をきっちりと結い上げ、無駄のない服装。
感情を削ぎ落としたような瞳。
「ラグナ村代表、エリシア・ヴァルドール」
名を呼ばれる。
エリシアは前に出る。
「はい」
「王都財務局監査官、ミレイア・クロスフォード」
名乗りは簡潔。
「貴女の制度運用を監査します」
ざわ、と村人たちがざわめく。
「監査?」
ナディアが低く呟く。
ミレイアの視線が、板へ向く。
数字を、流れるように追う。
「……簡易的だが、構造は悪くない」
淡々と評価する。
エリシアは動じない。
「不足点も多いですが」
「自覚はあるようですね」
視線がぶつかる。
冷たい瞳と、静かな瞳。
「なぜ、ここまでしますか」
ミレイアが問う。
「断罪された身で」
「干ばつが来るからです」
即答。
「確率論に村を賭ける?」
「賭けではありません」
「では?」
「備えです」
短い沈黙。
村人たちは息を呑む。
ミレイアは板を指でなぞる。
「感情が見える」
「はい」
「制度に、感情は不要です」
その言葉に、エリシアの胸がわずかに波立つ。
「不要ではありません」
ミレイアの眉がわずかに動く。
「感情は、制度を腐らせます」
「感情がなければ、制度は守られません」
静かな応酬。
ナディアが腕を組み、面白そうに見る。
村人たちは、二人を交互に見つめる。
ミレイアはしばらく沈黙し、やがて言った。
「滞在します」
「どうぞ」
「徹底的に監査します」
「歓迎します」
視線が交錯する。
これは、敵か味方か。
まだ分からない。
だが一つ確かなことがある。
ラグナ村の戦いは、村の中だけでは終わらない。
王都が、動き始めた。
空は、相変わらず白い。
雨は、降らない。
だが別の嵐が、近づいている。




