第六章 scene9 旅立ち
雨は降っていないのに、空気だけがしっとりしている夜。
店の灯りは落とされ、ただカウンターの上だけが柔らかく照らされている。
爺さんはベッドで眠るように横になり、
枕元にはサーヤが、少し離れた椅子にレオン。
静かだけど、泣くにはまだ早い空気。
「……わしはな、この世界にもう一度きて……
“二度目の人生で何を味わいたいか”ってずっと問われていたんだと思うよ」
サーヤとレオン、息を飲む。
サーヤ
「答えはでたの?」
爺さんは、天井ではなくカフェの方角をぼんやり見て、笑った。
「“ただ、コーヒーを淹れていたい”」
淡々と。けど、言葉の奥は温かい。
「戦も、富も、名誉もいらん。
人が座って、息をついて……
『ああ、生きてる』って思える時間があれば、それでよかった」
サーヤ、目が潤む。
爺さん
「サーヤ。
お前さんの淹れる紅茶や甘い菓子は……
“生きたいと思ってる人の味”がした」
サーヤの唇が震える。
でも泣かない。泣かないようにしてる。
爺さん
「レオン。
お前さんはまだ…“どこに立つ人間か”を探してるな。
だがな……」
少し笑って、冗談みたいに言う。
「お前さんは、“逃げている人間の目”じゃなくなった。
“帰れる場所を知ってる人間の目”になった」
レオン、少しだけ顔を伏せる。
⸻
爺さんの呼吸が少し弱くなり――
でも声は柔らかいまま。
「転生なんてものはな。
奇跡でも祝福でもない。
“選び直す権利”をもう一度もらっただけだ」
そして、ふたりを優しく見る。
「――選びなさい。
“罰”からじゃなく
“生きたい未来”から」
沈黙。
灯りが揺れる。
そして――
静かに
静かに
爺さんは眠るみたいに息を手放した。
泣き声はない。
ただ、
店の奥で静かにコーヒーの香りが残っていた。
⸻
日常が戻る。
いや――
「戻らないまま、動き始める」
常連たちが来る。
席につく。
笑う。
仕事の愚痴。
恋の話。
疲れた背中。
爺さんはもういない。
でも、
「ただいま」
って顔で人が入ってくる。
そして言う。
「やっぱり、ここがないとダメだ」
⸻
サーヤは少し大人の表情になる。
レオンは少し柔らかくなる。
ふたりは笑う。
喧嘩もする。
でも続ける。
“爺さんのいない日常”を、
“失った日常”にしないために。
⸻
しばらくして、閉店後の店内。
椅子は逆さに掲げられ、
カウンターだけがぽつんと灯っている。
レオンの前には――
爺さんのカメラ。
サーヤ
「行くんだね」
レオン
「あぁ」
泣く空気じゃない。
重い空気でもない。
ただ、“次へ行く人間の顔”。
サーヤは、笑う。
「じゃあ……行ってきなよ、カメラマンさん」
レオンも笑う。
「――ただいま、って言えるようにな」
サーヤ
「言ってよ。絶対言ってよ。
“ただいま”って聞きたいんだから」
手は伸ばさない。
抱きしめ合わない。
恋人じゃない。
でも、ただの仲間でもない。
“同じ世界に二度目に生きてる人間同士の、
いちばん静かで強い絆”。
レオンはドアを開ける。
外の風。
街の光。
一度だけ振り返る。
サーヤ
「いってらっしゃい」
レオン
「あぁ」
ドアのベルが鳴る。
――レオンは旅へ。




