第一章 scene7 習う
朝の匂いと、温かい蒸気の中で。
サーヤは、言葉を継いだ。
「文字、習いたいの。ちゃんと……ちゃんと覚えて、
家のことも、店のことも、手伝えるようになりたいから!」
胸を張ったつもりなのに、声は少し震えていた。
でも、その瞳だけは真っ直ぐだった。
ハルトは、しばらく黙って娘を見つめていた。
やがて、ふっと、息を吐いた。それは、笑うのを堪えているような、泣くのを堪えているような、不器用な大人の表情。
「……そうか」
ただ、それだけ。
でもその声は、今まで聞いたどんな声よりも優しかった。
「サーヤが……“外に出たい”なんて言う日が来るとはな」
手の向こうで、鍋が静かに沸騰する音がした。
「お前……ずっと家の外を嫌がってたからな」
ゆっくり、頭を撫でられる。大きくて、少し荒れている手。でも、とても優しい。
サーヤは思わず目を丸くした。
「嬉しいよ。ほんとに……嬉しい」
俯くハルトの声は、少しだけ震えていた。
「行こう。学舎に頼みに行こう」
◻️ ◻️ ◻️
昼前の通りは、賑やかだった。
パン屋の香り。
露店の声。
馬車の車輪。
遠くで鐘が鳴る。
サーヤはハルトと並んで歩きながら、“この世界の風”を、初めてゆっくり吸い込んでいた。
少しだけ胸が高鳴る。
学舎――
白い壁の、静かな建物。
木の扉を押して入ると、机が並び、子どもたちの声が響いている。
その中に見覚えのある顔があった。
「おや」
学舎の中央にいた教師が、にこりと笑う。
スプーン亭の常連客。いつも静かに本を読んでいた、落ち着いた男だ。
「おやおや、珍しいな。旦那とサーヤちゃんがここへ来るとは」
ハルトが少し頭を下げる。
「……頼みがある。この子に、文字を教えてやりたい」
男は、少し目を細めた。
サーヤを見て、そして――笑った。
「もちろんだとも」
軽い即答。ハルトが目を見開く。
男は肩をすくめた。
「学舎で本格的に通わせるとなると学費も必要だがね。ただ文字だけ覚えたいなら……」
指を立てる。
「店の暇な時間に、来なさい」
サーヤは瞬く。
「え……いいの?」
「いいとも。わたしはスプーン亭の常連だよ?」
くすりと笑った。
「恩返しのひとつも、させておくれ」
柔らかい声。
「午後の二刻ほど。毎日来なさい。きっとすぐ読めるようになる」
胸が、ぽん、と弾ける。
サーヤは深く頭を下げた。
「書けるようにもなりたいの。お願いします!!」
ハルトは笑った。
学舎を出た帰り道。サーヤは胸が軽かった。
風が気持ちいい。世界が、少しだけ明るい。




