第六章 scene4 あの頃
カウンターの奥。
磨かれた銅色のポットから、ゆっくりと湯が落ちる。
老人――ボルドが、落ち着いた声で言う。
「焦るな。
珈琲はな、“急かされるのがいちばん嫌い”なんだ」
レオン
「……なるほど、俺と同じだな」
ボルド、吹き出す。
「君は思ったより正直だな」
真剣な横顔。
湯が粉を膨らませ、ふわりと香りが立ち昇る。
レオンの視線が止まり、魅了されるようにに吸い込まれていく。
「……生き物みたいだな」
「そうとも。豆は、遠くの土地の風や時間を吸い込んでここへ来る。
“今” 君の手で息を吸って、“この店の一杯” になる」
ボルドはそう言って、静かに見守る。
――
奥のキッチンから鼻歌が聞こえてくる。
軽く、踊るみたいなリズム。
のぞき込まなくてもわかる。
サーヤ、楽しんでる。
粉砂糖が指先について、
クリームをすっと伸ばす手つきは
決してプロじゃないのに――
「食べるお客の顔」を想像している。
サーヤ
「ねぇボルドさん!
この街、甘いものってどんなのが人気?」
ボルド
「ん? そうだな……
慣れない土地から来た労働者が多い。
だから“懐かしさ”よりも “ほっとする味”だな」
サーヤ、ふふっと笑う。
「じゃあ、“やさしい味”にする」
ボルドの目が、少し細くなる。
「……いい顔だ」
鍋の音。
木べらがカチンと当たる音。
遠くの通りの喧騒。
でも店の中だけは、時間の流れ方が違う。
静かで、温かい。
――
そして、ふと。
ボルドがぽつりと漏らした。
「可愛らしいパートナーじゃな」
レオン
「……どっちの話だ?」
ボルドは笑って、でもほんのすこしだけ寂しい目をした。
「店が華やいで……
妻がいた頃を思い出すよ」
レオン、言葉が出なくなる。
振り返る。
キッチンでクリームを指につけて味見して、
「あ、甘さもう少し減らそ」と真面目顔になるサーヤ。
その背中が、やけにあたたかい。
ボルド
「……店ってのはな。
“誰かの時間を預かる場所”なんだ」
「だから、
こっち側に笑顔が混じるだけで、世界が変わる」
レオン
「……そっか」
ゆっくり、珈琲が落ち切る。
ボルド
「はい、一杯目は“君の珈琲”だ」
レオンはカップを受け取り、店内を見渡す。
あたたかい匂い。
鼻歌。
湯気。
灯り。
「――悪くねぇな」
ボルドが微笑む。
「だろう?」
サーヤの声が奥から響く。
「できたー!見て!これ絶対幸せになるやつー!」
レオン
「おいおい、完成前から宣言してるぞ」
でも、笑いながら。
ボルドも笑う。
「俺にも、幸せの一杯を頼むよ」
店が――
確かに “生き返っていた”。
――こんな時間が、
しばらく続いてほしいと、
誰も言わないけど、誰もが思っていた。




