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第二章 scene12 噂

スプーン亭は、連日満席だった。


笑い声。

グラスの音。

夫婦の再会を祝う言葉。

「奥さんが戻ってきて、本当によかったなぁ!」

そんな言葉が、毎日のように飛んでくる。


―――なのに。

少しずつ、何かが噛み合わなくなっていった。


ある昼の営業。


「今日の煮込み、味が軽いわね」

ミナがスプーンを口に運び、眉を寄せる。


ハルトは、小さくうなずく。

「……あぁ、もう少しコクを足すよ」


それ自体は普通のやり取り。けれど、店の空気が微妙にピリピリと揺れた。


昔なら――

「あら?味変わった?」

「うん、でも今日のも悪くないわね」

軽い冗談と笑いで流れたような場面。


でも今は、違う。

“夫婦で立て直す店”という空気の中で、ミナの言葉は 変化を許さず「正しい正解」 を求める。

ハルトは、それに従う “無言の役割” を背負う。


そして、ふと気づく。

―――「サーヤ」がいた頃の、あの“柔らかい時間”がない。


彼女が笑って間に入り、客に軽口を飛ばし、

父の失敗を冗談に変えてくれた空気が――


今は無い。


「なんか……立派になったねぇ」

「うん、ちゃんとした店になった感じ。でも……」

「……あの子、どうしたんだい?最近見ないけど」


その問いは、何度も何度も繰り返された。

ハルトは、そのたびに笑顔で答える。

 

「奉公に出した。修行だ」

(あんな少女を修行に?皆が疑問を飲み込んだ)


それは、父親として一番“立派そうな言葉”。


でも、その言葉を言いながら胸の奥が、少しだけ痛んだ。


営業が終わった店。

椅子を上げ、床を拭き、帳簿を閉じる音だけが響く。


ハルトは、帳面を見つめながら、ふと手を止める。


―――数字は悪くない。

―――客も来ている。

―――評判も上々。


なのに。


店は、止まっている。

そんな感覚。


「……サーヤならここで……」

思わず、口に出た。


皿洗いが苦手な手伝いがいれば、笑い飛ばして庇って。

焦げたスープには、冗談で救いを与えて。

落ち込んだ父を、小突いて笑わせて。


あの子は、店を支える“芯”だった。


それに、気づくのが――少し遅すぎた。


ある日。


パン屋の話を聞いたのは、市場の帰り道だった。


「街のパン屋、すごいんだよ!」

「柔らかいパンがあるって話でね!」

「どうも、若い娘が作ってるらしいぞ」

「生意気だけど腕は一流なんだってさ!」


その言葉が、心臓を鷲掴みにした。


――若い娘。

――パン。

――柔らかい。

――異様に元気な噂。


ハルトの視界が揺れた。


まさか。

まさか――


胸がざわざわと騒ぎ出す。


その夜。

「……ミナ」

ハルトは、静かな声で切り出した。

ミナがゆっくり顔を上げる。


「明日、少し遠出する。

……探してみようと思う。サーヤを」


息が止まるような沈黙。

火の落ちたランプが、わずかに揺れ、その影が壁を波打たせた。


「……どうして?」

ミナの声は、優しかった。優しすぎて、怖かった。


 「だって、あいつは――」

言いかけた言葉が、喉の奥で止まる。


“居場所を奪われ、戻る場所を失った子ども”


その言葉が喉に浮かび、だけど――言えなかった。


代わりに出たのは。

「……ただ、会いたいんだ。アイツに」


ミナは、そっと手を伸ばした。

ハルトの手に触れる。指が絡む。


 

「……あなた。あの子は自分で出て行ったのよ。

わたしたちを置いて……」


 その声は、震えていた。


「あの子の思うようにさせてあげて。

……ねぇ、お願い」

 

ぎゅっと手を握る。


「あの子の、そしてここにあなたといるわたしの幸せを、あなたが揺らさないで」


ハルトは――

言葉を失った。


ミナの手は温かい。震えている。


この人も、過去に傷ついて。

罪悪感に押し潰され。やっと戻ってきた。


それは分かってる。


でも――

間違っている。親として。胸が、締め付けられる。

サーヤの笑顔が浮かぶ。


泣きながら笑った顔が浮かぶ。

それでも、ミナの涙に、勝てなかった。


 

「…………分かった」 


そう言った瞬間。

ランプの火が、小さく――揺れた。


ミナは一人、暗い部屋で膝を抱えた。

(……止めなきゃいけなかった)


震える胸に手を当てる。


 

(だって――あの子が戻ってきたら……

“また私は、母親に戻らなきゃいけない”)


そして。

――“女としての幸せ”は、きっと壊れる。


その恐怖に、ミナは静かに目を閉じた。

「……ごめんね、サーヤ」

(それでも、わたしは――)


 わたしだけが“幸せになりたい”と、願ってしまった母は。


静かに罪を抱えたまま、夜の闇に沈んでいった。

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