第二章 scene11 パン屋の日常
朝は、パンの匂いで始まる。まだ薄暗い工房に、火を入れる音。粉を計る音。木の台に生地が打ち付けられる、リズムみたいな音。
サーヤは、すっかりその中に混じっていた。
「――ほら、もっと優しく。殴るんじゃなくて、こねるんだ」
「言われなくても分かってるわよ!」
弟子に文句を言いながら、生地をぽんぽん叩く。
その横で、親方は無言で腕を組んでいたが……
ふ、と口元が緩む。
「……手つきが、もう職人だな」
「聞こえてるわよ親方!?」
「褒めただけだ!」
工房に笑いが広がる。
サーヤは瓶を抱え、真剣な顔で弟子たちを並ばせていた。
「いい?酵母はね、勢いじゃないの」
「へ、へい!」
「優しく撫でるの。温度、湿度、空気――“生きてるんだから”」
弟子が恐る恐る瓶を撫でる。
「……なんで撫でる必要あるんです?」
「気持ちの問題よ!」
親方「理屈は後で教えてやれぇぇぇ!」
でも、酵母は、確かに応えた。
ぷく……ぷく……
泡が静かに踊り始める。
弟子たちは目を丸くし、親方は無言で身を乗り出し、
店にいる猫まで近づいてくる(※勝手に来た)
サーヤは瓶を抱いて、にっこり笑った。
「――ね、生きてる」
その瞬間、「この街に“新しいパン”が生まれる予感」が、工房いっぱいに満ちた。
試作が始まると、戦場になる。
粉まみれ。
試食まみれ。
失敗まみれ。
「これ甘すぎ!」
「いや、もっとバターだ!」
「いやいや、軽さ命だろ!」
全員、即座に口論。
「静かにしなさぁい!!」
――サーヤの声が、一番強かった。
「“毎日食べたいパン”がテーマ!
ケーキじゃないの!主食!」
親方、目を細める。
「……それだな」
数回の試作の末、外は薄くさく、中はやわふわ、
ほんのりミルクの甘み。
食べた瞬間、「……幸せになる」
弟子がぽつりと言った。
親方も黙って頷いた。
「……名前は?」
サーヤは少し考え、笑った。
「“朝のパン”」
派手じゃない。でも、毎日食卓に置きたくなるパン。
――翌日、爆売れした。
午前の来店ピーク。
客がずらっと並ぶ。
「丸パン4つ!」
「新作ちょうだい!」
「今日もあれある?」
てんやわんや。
親方「おいサーヤ!お釣り!」
サーヤ「弟子!袋!」
弟子「はい姐さ――やべっ!」
気づけば、サーヤの掛け声が一番通っていた。
「ありがとう!焼きたてだからね!食べると幸せになるやつよ!」
客が笑い、子どもが「幸せパン!」と叫び、店は活気でいっぱいだった。
扉の外で行列ができ、近所の奥様がひそひそ言う。
「あの子が来てから、雰囲気変わったわね」
「いい子ねえ」
「ちょっと面倒見たくなる顔してるのよ」
――そして。
昼の落ち着いた時間。
奥から、ゆったり歩く女性が出てきた。
穏やかな目。柔らかな雰囲気。
でも、芯がありそうな人。
「あなたが……サーヤちゃんね?」
サーヤ。背筋が伸びる。
「はい!お世話になってます!」
優しく笑う。
「そんなに力まなくていいのよ。
あなた――少し、やつれてるわね」
まっすぐ、核心を刺す人。
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「……まぁ、そこそこ……」
「そこそこはダメ。“女は栄養が命よ”」
そう言って、エプロンを結び――
無言でキッチンに立った。
出てきたのは、温かいスープと、焼き立てパンと、
甘すぎないジャム。
「食べなさい」
サーヤ。
一口食べて、目を見開く。
優しい。
沁みる。
なんか、泣きたくなる味。
奥さんは笑う。
「……娘がいたらね、こんな感じなのかなって、思ってたの」
サーヤは視線を落とす。
胸の奥が、少し痛くて、少し、温かい。
「……ありがとうございます。
もう少し、ここにいさせてください」
奥さんは、軽く頷いた。
「好きなだけいなさい。
うちの子になりなさい――なんて言わない。
でも、“帰れる場所のひとつ”にはなりたいの」
サーヤは、ゆっくり笑った。
「……はい」
パンの匂い。賑やかな店。からかう弟子。
照れくさい親方。そして、優しい奥さん。
サーヤの胸の奥に、“居場所”と呼べるものが、またひとつ増えた。




