第二章 scene10 勝負の行方
焼きたての香りが、工房いっぱいに広がった。
弟子たちは固唾を飲んで見守り、親方は腕を組んだまま微動だにせず、サーヤは――ただ静かに、パンを見つめていた。
ぱん……。
最初に音を立てたのは、親方のパンでも、弟子のパンでもなかった。
サーヤのパンだった。
表面が薄く割れ、中から、柔らかい湯気がふわりと溢れ出す。
「…………っ!」
弟子が息を呑む。
「見ろ……膨らみが……」
「軽いのに、潰れてない……!」
「焼き色も……綺麗だ」
親方は、無言のままパンに手を伸ばし、ぐっと半分に割った。
しっとり。でもふわり。
糸を引くように柔らかい内側。
ほんのり甘い、だけど主張しすぎない香り。
“食事のためのパン”。
親方はそれを、 迷いなく口に運んだ。
もぐ。
ひと噛み。
ふた噛み。
――そして。
「……………」
沈黙が、落ちた。
弟子たちがごくりと喉を鳴らす。
サーヤは、唇を噛んだまま動けない。
やがて――
親方は、顔を上げた。
「…………」
「…………」
「………………はぁ!? なんじゃこりゃあ!!」
(松田優作がここに?)
工房が、爆発した。
「軽ぇ!!」
「なのに味が深い!」
「柔らかいのに、噛むほど甘ぇ!」
「これ……こんな食感……この街にねぇぞ!」
弟子たちが口々に叫ぶ。
親方は、顔をぐしゃぐしゃにして笑った。
「くっそ……!悔しいが――うめぇな!!!」
サーヤは、胸に手を当てて、思わず笑ってしまった。
「……よかった……」
そして、ようやく。親方は、サーヤの方をまっすぐ見た。
「――ようやく、お前さんの話を聞く気になった」
工房の空気がすっと落ち着く。
親方は腕を組み。
「それで、家出娘、これからどうするんだ」
真正面から投げられた問い。
サーヤは一瞬だけ天井を見てから、笑う。
「……働かなきゃ、かな」
親方は鼻で笑った。
「だろうな」
そして。
「――ここで働くか?」
弟子たちがざわっ、と振り返る。
サーヤは、ほんの数秒黙って――
静かに、首を横に振った。
「嬉しい。本当に嬉しい。
でも――」
胸に手を当てる。
「わたし、パン屋になりたいわけじゃないの」
弟子「断ったぁーー!!?」
工房が揺れた。
親方は、額を押さえる。
「この……小娘が……!
このクオリティ作って断る奴があるか!」
サーヤ、苦笑。
「やりたいこと、まだ分からなくて。
でも、“ここじゃないどこか”に、きっと何かある気がしてて」
数秒の沈黙。
そして――
親方は、大きく息を吐いた。
「……はぁ。好きに言いやがって」
そして、口角を上げた。
「いい。だったらとりあえず――」
親方は、パン台を ドン! と叩く。
「ここに置いてやる!」
「は?」
「寝床くらい貸す!飯も出す!仕事は手伝え!
そして――」
サーヤの持つ小瓶を顎で指す。
「その“酵母”、全部教えろ!!!」
弟子たち「親方ーーー!!!」
親方は笑った。
「職が決まるまで、いりゃいい!決まったら堂々と出ていけ!でも!」
指を突き付ける。
「二度と“寒空で倒れそうな顔”はすんな。いつでも来い。」
サーヤの喉が、少しだけ熱くなる。
そして深く頭を下げた。
「……はい。ありがとうございます!
よろしくお願いします!!」
工房の空気が明るくなる。
パンの香りと、笑い声と、温かい空気。
スプーン亭を出た少女の(とりあえずの)新しい居場所は、今、静かに、確かに見つかった。




