第二章 scene9 パン勝負
工房に、生地をこねる音が響く。
サーヤの手は迷いがない。
粉を掬い、必要なだけ水を足し、
迷いなくこね、叩き、折り畳む。
その動きにパン職人たちの視線が、自然と吸い寄せられていく。
ごり、ごり、ごり。
体重をうまく使って、ゆっくり、でも確実に。
無駄がない。動きが整っている。
店主が眉をひそめた。
「……手際が、いいな」
サーヤは肩で息をしながら、チラっとだけ笑う。
「まぁね。家事と育児と仕事の合間に“時短で最高の結果を出す”訓練、毎日してたから」
「何だそれは」
「たぶんこの世界で一番ヤバい修行よ」
さらに、サーヤはぽん、と酵母をひとつ落として――
柔らかく、包むように生地をまとめる。
職人の一人が思わず声を漏らした。
「……雑じゃない……」
「でも遅くもない」
「力の入れ方が一定だ」
「子どもなのに、あんな“癖のない手”……」
店主がぽつりと呟く。
「……毎日、戦ってきたのか」
サーヤは一瞬だけ動きを止めた。
そして、笑わずに言う。
「そう。戦ってた。
“誰にも迷惑かけないで、ちゃんと頑張る女の人生”ってやつとね」
けれど、手は止めない。
ごり。
折る。
伸ばす。
丸める。
「発酵は、どうするんだ?」
職人が試すように言う。
サーヤ、ニッと笑う。
「この工房、温度も湿度もいいね。
あと、これ」
布をかけ、温もりを逃がさない。
店主は腕を組み直し、その様子をじっと見つめる。
そして――
「……よし。じゃあ“こっちのパン”も焼こう」
彼は横で、この街の正統派のパンを作り始めた。
工房の空気が変わる。
弟子たちがざわつく。
「親方が……自分で?」
「勝負じゃん」
「何年ぶりだよ、あの手付き……」
焼き釜に火が入り、パン生地が並ぶ。
サーヤのパン。
街のパン屋の誇りのパン。
2つが――同じ火に挑む。
火の音だけが聞こえる。
ごぉぉ……と低い音。
焼ける香り。
膨らんでいく影。
弟子たちは息を呑み――
店主はただ、静かに見つめ――
サーヤは、ほんの少しだけ、震える指を握りしめた。
(失敗したら、笑われるだけじゃない)
(わたしの “ここで生きる場所” が、消える)
――パンが、焼ける。
香りが、空気を満たす。
勝負の火蓋が、ゆっくりと、開いた。




