第二章 scene5 母の内面
サーヤがいない。
ハルトが青ざめて動き回る。
その光景を見ながら――
ミナは、胸の奥が、冷たくなるのを感じていた。
(……いなくなった?)
驚き。
焦り。
そして――
ほんの一瞬だけ、心のどこかに浮かんだ、言ってはいけない感情。
――「その方が、都合がいい」
瞬間。自分自身にゾッとした。
(違う。違う違う違う)
頭を振る。
でも、その感情は確かに、そこにあった。
サーヤがいない世界。
“夫婦が中心の家族”に戻る世界。
「夫婦の再会」という、物語として分かりやすい幸せ。その絵に、サーヤは――いらない。
(……最低ね、私)
胸がちくりと痛む。
もちろん、愛したい。
もちろん、抱きしめて謝りたい。
もちろん、泣いて帰ってきてくれたら、歓迎したい。
――そう思っている“つもり”。
だけど。
ミナが1番望んでいたのは、
わたしを「帰ってきた私を、誰も責めずに受け入れてくれる世界」だった。
その世界の中で――
私を赦し、母を愛する娘として存在してほしかった。
気づいてしまった。
苦い真実。
スプーン亭が復活したと聞いて、戻れると思った。
私は、「母として戻った」んじゃない。
私を、「幸せにできる場所に戻った」だけ。
娘の心の痛みより“私の物語の救済”を求めていた。
だからサーヤの視線が、時々、痛かった。
あの子は蔑んだ、わたしを。わたしの本性に気づいて。大人みたいな顔して。
だから――
わたしは、母親のくせに。娘の痛みに向き合う覚悟よりも、勝手に育った娘の「都合のいい安心感」に甘えていた。
ハルトが震える声で言う。
「探さないと……!ミナ、俺は――」
ミナは一瞬、言いかけた。
――「そのうち戻ってくるわ」
その言葉を、喉の奥で飲み込む。
言ったら終わりだ。
母親ではなく、“女”の側に完全に堕ちてしまう。
(違う。違うでしょ。あなたは母親でしょ。
“罪滅ぼし”なんかじゃなく、 “向き合う覚悟”をしなさい)
頭では分かっている。
でも、心は――怯えていた。
サーヤと真正面から話すのが、怖い。
泣いて責められるのが怖い。
「どうして捨てたの?」って言われるのが怖い。
「いまさら母親ヅラするな」って言われるのが怖い。
そしてなにより。
娘に裁かれることで、自分の「幸せの物語」が壊れるのが怖い。
(……本当に、母親失格ね)
ミナは唇を噛む。
泣けば可哀想な被害者になれるかもしれない。
静かに思う。
(サーヤ。あなた……どれだけ我慢してたの?)
愛してないわけじゃない。
ただ――愛せないのよ。わたし以外誰も。
ミナは、初めて本当の意味で自分を理解した。
静かな後悔が、胸に広がる。
戻ってはいけなかった。
それでも世界は止まらない。
幸せそうに見えたこの場所の中心で――
「……ごめんね、サーヤ」
(それでもわたしは、幸せになりたいのよ)
それは娘に届かない。
誰にも届かない。
ただ、自分だけの胸の奥で沈んでいく言葉だった。




