第二章 scene4 動揺と焦燥
朝の光が、厨房の窓から差し込んでいた。
パンを焼く匂い。
スープの湯気。
いつも通りの、始まりのはずだった。
ハルトは、鍋をかき混ぜながら、軽く声を張る。
「サーヤ、起きろよー。今日は仕込み、多いからな」
返事はない。
寝坊か?珍しいな。
苦笑しながら、布巾で手を拭き、廊下へ出る。
サーヤの部屋の前で、ノック。
「おい、サーヤ?」
やっぱり返事はない。ハルトは苦笑いのまま、扉を開けた。
――静寂。
ベッドの上は整っていた。枕は冷たい。
掛け布団は綺麗に畳まれている。
違和感が、胸を掠める。
(……あれ?)
部屋を見渡す。
服。
靴。
小物。
――いくつか、消えていた。
その瞬間。頭が真っ白になった。
「……………サーヤ?」
呼んだ声は、さっきより小さく。喉の奥でくぐもる。
胸の奥が、ズン、と沈む。
まさか。
そんなはずない。
そんな、まさか――
ハルトは、廊下へ飛び出した。
家中を探す。
厨房。
裏庭。
倉庫。
どこにも、いない。
息が荒くなる。
手が震える。
「サーヤ……? おい、隠れてんのか……?
冗談だろ……?」
冗談じゃない。
どこにも、いない。
扉の前に立った時。
冷たい風が、頬を撫でた。
昨夜、開け閉めされた気配。
小さく軋んだ、音の記憶。扉のノブにサーヤのエプロンがかけられていた。
――嫌な予感が、全身を締め付けた。
その時。背中から声。
「どうしたの?」
ミナが、眠そうな顔で廊下に立っていた。
ハルトは、振り返る。本能で悟る。
これは、笑って済ませる事じゃない。
そして、やっと言葉が出た。
「……サーヤが、いなくなった」
ミナの表情が固まる。
静寂。
家の空気が、変わった。
ハルトは、やっと理解する。
サーヤは傷ついて、泣いていた。声もなく。
胸の奥が締め付けられた。
後悔という言葉では足りない。
昨夜の言葉が、蘇る。
「本当のスプーン亭に戻れました」
「夫婦が中心だ」
「サーヤはいい子だ」
――全部、“娘を置いていく世界”の言葉だった。
ハルトの膝が、わずかに揺れた。
(俺は……あいつの手を、放したのか)
叫びたいほどの焦り。
でも、叫べない罪悪感。
父親なのに。
2人で積み重ねたものと、サーヤの居場所を守るべきなのに。
“帰ってきた妻”ばかり見ていた自分。
“娘は大丈夫だ”と勝手に決めつけていた自分。
(俺は、あいつをひとりにしたのか)
ミナが、震える声で言う。
「探しに行きましょう。誰かに連れ去られたのかも。まだ、遠くには――」
ハルトは静かに、首を振る。
必死に、息を整えながら。
「……違う。
“出て行った”んだ。
……自分で」
その言葉は、ハルト自身の胸に突き刺さった。
外の街は、もう動き始めている。
でも今日だけは、
スプーン亭の朝は――
いつもより、ひどく静かだった。




