第二章 scene3 家出
荷物は――驚くほど、少なかった。
服。
替えの靴。
帳面の切れ端。
それから、
“スプーン亭”の店名が消えかけた、古い布巾。
サーヤは一度だけ、それを胸に抱いた。
(わたし、ここが好きだったよ)
それは、嘘じゃない。
だから、ここにいられなくなった今が、一番苦しい。
扉を開ける。
ランタンの灯りが、廊下の床を細く照らした。
父と母の声は、もう聞こえない。
おそらく、寝室に戻ったのだろう。
――呼ばないの?
心のどこかで、誰かが言う。
(……ううん)
首を横に振る。
呼べば、泣く。
泣けば、縋る。
縋れば、「子ども」に戻ってしまう。
今ここにあるのは。
“娘としての幸せ”じゃなく、“私として生きる覚悟”。
だから。
静かにで、いい。
靴を履く。
扉に手をかける。
その瞬間。
(……父さん。ありがとう)
声にはならない挨拶を、胸の中で落とした。
扉が、ほんの少しだけ軋む。
夜風が、頬を撫でた。
外は、意外なほど静かだった。
遠くの灯り。
石畳の冷たさ。
――世界は、ちゃんと続いている。
自分がいなくなっても、この店は明日も開くだろう。
その現実が、少しだけ痛くて。でも、少しだけ、救いだった。
サーヤは歩き出す。
誰も見送らない夜道を。
背中の扉は閉じたまま。
――けれど。
心の奥に小さく灯る火は、確かに前を向いていた。
(私は消えない。ここじゃない場所で、生きる。だって、わたしはアラフォーの強い女よ!)
そう決めた少女は――
ただ、静かに。
夜の街に、溶けていった。




