第一章 scene21 新しい夜
その日のスプーン亭は、いつもと違っていた。
看板に貼られた新しい紙。
ほんの少し明るくなった外灯。
そして――
店の奥から漂う、どこか懐かしい、
でもこの街には存在しなかった香り。
柔らかいパンの焼ける匂い。
そして、コトコト煮込まれた温かいシチューの匂い。
ハルトは、厨房で腕を組んでいた。
「……本当に、これでいいんだよな」
緊張が丸わかりの声。
サーヤは笑う。エプロンを結び直しながら、胸を張る。
「うん。今までの店から“これからの店”に変わる日だよ」
ドアが開く。
最初の客。
いつもの常連。
店主に一言言うつもりで入ってきた男は――
立ち止まった。
鼻から入る匂いに、目の前の“見慣れたはずの店”が、
少し違って見えたのかもしれない。
「……なんだ、この匂い」
「新メニューです!
やわらか煮込みシチューと、焼きたてパン!」
男は笑った。「じゃあ……それ、もらおうか」
パンを割る。
ふわりと湯気が立つ。
硬いパンしか知らないこの国の男は、その瞬間、ほんの少しだけ目を見開いた。
サーヤは祈るみたいに見つめる。
男は、パンをシチューに浸し口へ運ぶ。
……静寂。
ハルトがごくりと喉を鳴らす。
サーヤの手は汗ばんでいる。
常連はゆっくり息を吐いて。
「………………なんだこれ」
サーヤ「(だめか!?)」
ハルト「(やっぱ無理だったか!?)」
顔を上げる。
常連は、笑っていた。
「――とんでもなうまいな、これ」
そう言って、
もう一口。
もう一口。
止まらない。
噂は早い。
外を通った人が、匂いに足を止める。
「なんだこれ」
「パンが……柔らかい……?」
「とろける肉……?」
席が埋まる。
鍋が回る。
パンが減る。
ハルトが必死で動く。
でも――
今日は疲れより、楽しさが勝っていた。
「ここだろ? 新しい店は!」
酒飲み常連軍団がドッと押し寄せる。
「あー!? なんだそのパン!」
「シチュー!? 子どもの食べ物だろ!」
「じゃあそれ3つ! エールも!」
そして――
つまみメニューも売れる。
おしぼりが喜ばれる。
冷えたエールに、客が笑う。
最後の客を見送り、扉を閉める。
静かになった店内。
ハルトは、壁にもたれ、ゆっくりと座り込んだ。
息を吐く。
「……なぁ、サーヤ」
「なに?」
ハルトの声は、少し震えていた。
「今日だけで……今まで生きてきた分より多く笑った気がする」
サーヤは、ふわっと笑う。
ハルトは笑った。
「ありがとな」
サーヤは首を横に振る。
「違うよ。ここは、“父さんの店”だから。
わたしはただ一緒に戦ってるだけ」
ランタンの明かりが、2人を照らす。
温かく、柔らかい。
今日――
スプーン亭は、「ただの食堂」じゃなくなった。
「人の心を温める店」になり始めた。




