第一章 scene20 酵母
あの、硬いパンじゃなくて。
スプーンで食べる優しい料理に合う、
噛むたびに少しだけ幸せが広がる、柔らかいパン。
それがなきゃ、看板メニューは出せない!
井戸水
清潔な瓶
リンゴ
少量の甘味
「父さん、これ飲み物じゃないからね!料理用だからね!」
「いや飲まねぇよ……飲まねぇけど……それ腐らないか?」
「腐らせないのよ」
ビンを振る。
毎日観察する。
1日目――変化なし。
2日目――ちょっとだけ泡。
3日目――…
ぷく。
「……動いた……!?」
鼻を近づける。
すこし甘くて、ちょっとだけ酸っぱい。
でも――嫌な匂いじゃない。
(いい。これは、いい!)
初挑戦、パン!
練る。
発酵を待つ――
……
……
……。
生地「(無反応)」
サーヤ「……………」
数時間後。
膨らまなかった白いレンガが完成した。
ハルトが静かにかじる。
「……武器になるな、これは」
サーヤ「やめて!!」
温かさが足りなかったか。
水が悪い?
酵母が弱い?
試す。失敗する。
また試す。
また失敗する。
瓶は増え。
テーブルは酵母で占領され。
厨房の片隅が、ちょっとした実験室みたいになる。
ハルト、完全に困惑。
「……なぁサーヤ。
店、爆発したりしねぇよな?」
「爆発はしない!……はず!」
「はず!?」
様子を見守る常連さんが言った。
「昔、酒屋だった親父がな。
ぶどう放っておくと勝手に泡立つんだ。あれ、魔法みてぇだったよ」
サーヤの目が見開かれる。
(ぶどう……!それ、天然酵母の王様じゃん!)
ぶどうを分けてもらい、新しい瓶を用意。
優しく撫でるみたいに、混ぜる。
今度は、
焦らない。
見守る。
寝る前
瓶の前でじっと座るサーヤ。
「ねぇ……今度こそうまくいくといいね」
瓶は何も答えない。
でも、ゆらりと気泡が浮かび上がる。
サーヤはそれを見て、少しだけ笑った。
(私、ここで生きてるんだなぁ……
小さな泡ひとつで、こんなに嬉しいなんてさ)
ある朝、コトン、と軽い音。
瓶の中が――
ぷくぷくぷく!
サーヤ「……きた!!」
台所に走る足音。
ハルトが寝ぼけ顔で出てくる。
「火事か?」
「違う!成功!!」
「どっち!?」
生地が膨らんだ。
本当に、膨らんだ。
ふっくら丸い。
柔らかい。
沈んで、戻る。
ハルトの手が震える。
「……サーヤ」
サーヤは笑う。
「スプーン亭のパン、完成――第一号だね」
まだ完璧じゃない。
まだ道の途中。
でも。
この瞬間。
スプーン亭の未来が、ひとつ“膨らんだ”。




