第十一章 scene6 新店
契約は、静かに済んだ。
派手な祝杯もない。
「よし!」と叫ぶこともない。
クルスとテッドは、書類を丁寧に畳み、
ただ一度だけ、互いに頷いた。
「……やるか」
「ああ」
それだけだった。
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そこからは、早かった。
朝。
昼。
夕方。
シャッターを開ける前の店内は、常に誰かの気配があった。
壁を拭く。
床を磨く。
古い棚を外し、使えるものを残す。
レオンは、袖をまくって言う。
「配線は後回しだ」
「まず火と水を優先する」
カイは、黙々と動く。
油汚れを落とし、焼き台の高さを測り、
一度、目を閉じてから言った。
「……ここ焼く人が暑そうですね」
テッドが笑った。
「もう分かるのか」
「立つと、分かりますよ」
クルスは、その様子を少し離れて見ていた。
⸻
3日目。
看板は、まだ仮のまま。
でも、店の“形”は、はっきりしてきていた。
そこへ。
外から、靴音が重なって聞こえた。
一定の間隔。
揃った歩幅。
レオンが、手を止める。
「……騎士団か」
扉が開く。
「失礼する」
入ってきたのは、騎士団2人。
鎧ではないが、動きは明らかに“それ”だ。
先頭の男が、店内を見渡す。
「新規開店の届けは、出ているな」
クルスが前に出る。
「はい、出してます」
「こちらです」
書類を差し出す。男は、受け取り、目を通す。
「…随分…急だったな」
「港の件で」
クルスは、余計なことは言わない。
「場所を失いました」
騎士は、短く頷いた。
「そうか」
⸻
もう一人の騎士が、カウンター裏を見た。
「火の管理は?」
レオンが答える。
「基準通りだ」
「立ち上げは、試運転だけにしてる」
視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「……慣れているな」
「前の店があったからな」
騎士は、それ以上踏み込まない。
だが。
「最近」
先頭の騎士が、何気なく言った。
「この辺り、動きが多くて、よくない噂もある」
空気が、わずかに張る。
クルスは、息を整えて答えた。
「……うちは飲食だけですよ」
「分かっている」
騎士は、ゆっくりと言った。
「だから、見に来たんだ。“関係ない場所”かどうかを」
⸻
短い沈黙。
カイが、無意識にレオンを見る。
レオンは、ほんの少しだけ顎を引いた。
騎士は、最後に言った。
「しばらくは見回りが増える」
「困ったことがあれば相談するといい」
それだけ言って踵を返し、扉へ向かう。
出る直前、ちらりと店内を振り返り、一言、低く。
「……急ぎすぎて、巻き込まれるなよ」
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扉が閉まる。
チリン。
しばらく、誰も喋らなかった。
テッドが、ようやく息を吐く。
「……怖ぇな」
クルスは、首を振った。
「いや」
「ちゃんと、見ててくれる」
「それだけで安心材料だ」
レオンが、作業に戻りながら言う。
「“ちゃんとやってる店”は」
「目を付けられても、潰されない」
カイが、小さく頷く。
「……むしろ」
「変なことしてるとこが、嫌なんですよね」
レオンは、少しだけ笑った。
「そういうことだ」
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開店の日。
朝から、街の空気が違っていた。
焼けた肉の匂い。
甘辛いソース。
鉄板に当たる音。
クルテッドバーガー――
仮の看板だけど、もう人は集まっていた。
⸻
「今日はカフェ休み!」
サーヤは、そう宣言して袖をまくる。
エプロンは借り物。
でも動きは、完全に“現場の人”だった。
「パン、あと二列!」
「テッド、焼きすぎ!」
「クルス、列さばいて!」
「はいはい!」
「分かってる!」
レオンとカイも、自然に動く。
カイは包装。レオンは裏で火加減と補助。
流れは止まらず、順調に進んでいく。
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港の屋台を失ってから、
久しぶりのちゃんとした開店日。
人が笑う。並ぶ。
「うまい!」という声が、あちこちで上がる。
「やっぱこの味だな」
「待ってたぞ!」
テッドが、思わず目を潤ませる。
「……やってて、よかったな」
クルスは、短く笑った。
「ああ」
⸻
サーヤは、列の最後尾を見て、少し胸を撫で下ろす。
(嫌な空気が、消えたな)
祝賀の余韻も。
倉庫の噂も。
一瞬だけ、遠ざかった。
――そのとき。
⸻
サーヤは、気づいた。
人の流れの中に、
**“立ち止まらない視線”**がある。
食べない。
並ばない。
でも、去らない。
男。
30代後半くらい。
服装は地味。
労働者にも、商人にも見える。
ただ――
目だけが、鋭すぎた。
(……あ)
サーヤは、無意識に手を止める。
男は、鉄板を見る。
人の配置を見る。
金のやり取りを見る。
楽しそうな顔は、一切しない。
男の視線が、一瞬だけサーヤに向く。
すぐ逸れる。
でも――見ていた。
⸻
その様子を、
少し離れた場所から、レオンも見ていた。
(……混ざってるな)
カイが、ひそっと言う。
「……あの人、食べないですね」
「気づいたか」
レオンは、低く答える。
「いい目だ」
⸻
男は、しばらく様子を見てから、
何事もなかったように、人波に溶けた。
笑顔もない。
文句もない。
ただ――
確認だけして、去った。
⸻
「はい、次の方ー!」
テッドの声が、また場を明るくする。
音も、匂いも、笑い声も戻る。
今はそれだけで、十分だった。
⸻
夕方。
売り切れの札が出る。
拍手。疲労と、達成感。
クルスが、深く息を吐いた。
「……上々だな」
サーヤは、笑って頷く。
「うん」
レオンは、看板を見上げながら言う。
「だからこそ」
「狙うやつも、出てくる」
サーヤは、静かに答えた。
「来るなら、来いってのよ」
夕焼けの中、
クルテッドバーガーの煙が、まっすぐ上がっていた。




