第十一章 scene5 ボヤ
港で、ボヤが起きたのは夜明け前だった。
大きな火ではない。
倉庫の一角。
油と木箱。
風向きがよく、延焼は免れた。
それでも――
港は、一日、止まった。
「立ち入り禁止」
「安全確認が終わるまで」
その一言で、
屋台は、場所を失った。
⸻
昼前。
カフェの扉が、少し重たく開く。
「……よっ」
クルスとテッドだった。
いつもの軽さが、ない。
服に、港の匂い。
煙と、潮と、焦げた木。
「大丈夫だった?」
サーヤが、先に声をかける。
「人はな」
クルスが答える。
「商売は……まぁ、終わったな」
テッドが、苦笑した。
「屋台、しばらく無理だ」
「場所を使わせてもらえない」
二人は、カウンターの端に座る。
今日は、ハンバーガーもない。
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コーヒーが出される。
「ありがと」
テッドが言う。
しばらく、沈黙。
クルスが、ぽつり。
「……どうするかな」
「港が使えないと」
「仕込みも、売る場所も、ない」
「別の場所、探すしかないが」
テッドは、首を振る。
「今は胡散くさい話ばっかだ」
「“今なら空いてる”」
「“すぐ儲かる”」
「“権利がどうこう”」
サーヤとレオンが、視線を交わす。
⸻
そこへ。
常連のひとりが、声をかけた。
年配の男だ。
派手ではない。
口数も多くない。
「……なあ」
二人が顔を上げる。
「空き店舗があるんだが、使わないか」
クルス
「……は?」
男は、続ける。
「俺の知り合いの店だ」
「前は、食堂だった」
「今は空いてる」
「港からも、遠すぎない」
「胡散くさい話が多いのは分かる」
そこで、一度言葉を切る。
「でもな」
「お前らなら」
「変なことは、しないだろ」
テッドが、思わず聞き返す。
「……信用、してくれるんですか」
男は、肩をすくめた。
「してるわけじゃない」
一瞬、間。
「見てきただけだ」
「人の顔と、仕事ぶりをな」
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クルスが、慎重に聞く。
「条件は?」
「家賃は、最初は軽くするさ」
「修理が必要なら、相談」
「権利関係は、はっきりしてるし、」
「名義も、書類も、全部見せる」
レオンが、低く言った。
「……居抜きか」
「ああ」
「元々食堂で、設備は残ってる」
サーヤが、静かに口を開く。
「“すぐ決めろ”とは言わない?」
男は、首を振る。
「言わん」
「考えてからでいい」
「嫌なら、断っていい」
その言葉に、
クルスとテッドの表情が、少しだけ緩む。
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テッドが、小さく息を吐いた。
「……そういう話、久しぶりだ」
「ちゃんと逃げ道があるやつ」
サーヤは、微笑んだ。
「“急がせない話”は」
「だいたい、本物よ」
男が、少しだけ笑う。
「分かる人だな」
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クルスとテッドは、顔を見合わせる。
「……一度」
クルスが言う。
「見せてもらっても、いいですか」
「もちろんだ」
男は、立ち上がる。
「明日でいい」
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二人が帰ったあと。
レオンが言った。
「これが、落とし所かもな」
サーヤは、頷く。
「奪われた場所の代わりを」
「ちゃんとした形で、戻す」
「派手じゃないけど信用で埋めていくのが一番、強いよね」
外では、港の方から、作業の音が聞こえていた。
火は消えた。
でも、人の居場所は、まだ揺れている。
その隙間に、
“胡散くさくない手”が、差し出された。
クルスとテッドと一緒に、レオンは、カイを伴って港から少し離れた通りに立っていた。
「ここだ」
案内した常連の男が、鍵を回す。
古い木の扉が、少し軋んで開いた。
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中は――
思ったより、まともだった。
カウンター跡。
奥に、小さな厨房。
壁際には、古い棚と、使われなくなった食器。
「……元、食堂だな」
レオンが言う。
「居抜き、ってのは本当だ」
クルスも頷く。
床は少し傾いているが、致命的じゃない。
煙突の跡。水場も、まだ使えそうだ。
カイが、きょろきょろと見回す。
「ここ、ハンバーガー焼けそうですね」
テッドが、思わず笑った。
「お前、前向きだな」
「だって」
カイは素直に言う。
「“できない”感じはしません」
レオンは、何も言わずに、その言葉を心に留めた。
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外に出る。
「どうだ」
案内役の男が聞く。
クルスは、すぐには答えなかった。
通りを一度、見渡す。
人の流れ。
時間帯。
匂い。
「……悪くない」
そう言ってから、続ける。
「でも」
「今、決めない」
男は、驚いた顔をしなかった。
「あぁ、そうだろうな」
「一回」
クルスが言う。
「戻って、整理したい」
「金」
「仕込み」
「売り方」
「契約の前に」
「全部、並べたい」
男は、静かに頷く。
「それでいい。俺もその方が安心だ」
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カフェに戻る。
夕方前の、少し静かな時間。
サーヤは、すぐに察した。
「……見てきたのね」
「見てきた」
レオンが答える。
「悪くはない」
クルスが、率直に言う。
「正直、俺は乗りたい」
「でも……」
「今は」
サーヤが言葉を継いだ。
「“勢い”が一番危ない」
テッドが、深く頷く。
「だよな」
⸻
テーブルに、紙が並ぶ。
仕入れ。
設備。
最低限の改修。
一日の売上予測。
雨の日。
港が使えない日。
サーヤは、淡々と書き出す。
「最初の一ヶ月」
「赤字でも耐えられる?」
「二ヶ月目」
「どこで、黒に戻す?」
「ここ」
指で示す。
「家賃、軽いけど、固定費は出る」
レオンが言う。
「ここ削れるな」
カイが、控えめに言う。
「……屋台より人が増えるかもしれません」
クルスが、ふっと笑う。
「お前、現場向きだな」
「現場しか分かりません」
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しばらく、全員で考える。
誰も、急がせない。
誰も、煽らない。
最後に、サーヤが言った。
「……やれそうだね」
「でも、“今すぐ飛び込む”んじゃなくて、条件を詰めて、一回、深呼吸してから」
クルスが、ゆっくり頷いた。
「俺も、そう思う」
テッドが、肩を落とす。
「……不思議だな」
「焦ってたはずなのに」
「今の方が、腹が決まってる」
レオンは、短く笑った。
「それが、まともな判断だ」
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夜が近づく。
外では、港の方から、まだ作業音が聞こえている。
火は消えた。
でも、揺れは続いている。
だからこそ。
この小さなテーブルで、
数字と現実を並べている時間が、
何よりも、強かった。
サーヤは、最後に言った。
「契約は明日でも、来週でもいい」
「ちゃんと納得して“選んだ”って言える形で、やろう」
クルスとテッドは、顔を見合わせ、そして、同時に頷いた。
「……あぁ、そうする」




