第一章 scene16 商売人の気づき
少しずつ、夜のスプーン亭に灯りが染みるように、人が集まり始めた。
常連に加えて――仕事帰りの若い兵士、商人、ふらっと訪れた旅人。
店の空気は、確実に変わり始めていた。
ただ――。
サーヤは帳簿を見て、静かに眉を寄せる。
(悪くない。悪くないけど、これじゃまだ改装には届かない)
「父さん、相談ある」
厨房から顔を出したサーヤに、ハルトが首を傾げる。
「まだ何かやる気か?」
「うん。“気持ちよく飲める店”にしたいのよ」
⸻
夜。
樽から注がれるエールをじっと見つめるサーヤ。
この世界のエール……美味しいけど、ぬるいのよね。
(味見でなめた!)
サーヤの目が、キラーンと光った。
サーヤは、倉庫の端で埃をかぶっていた大きな木桶を発掘。
そこに井戸水+冬の間に保存されていた氷の塊に塩を混ぜて冷却効果UP。
カラン…
キン、と冷たい音。
「父さん、これ使って」
出されたグラスにハルトが触れて――
「おお……冷てぇ……!」
サーヤは胸を張る。
「“冷たいグラスのエール”、絶対流行るわ」
そして――
初めてそれを飲んだ客が眉を上げ、
「……なんだこれ。贅沢だな」
一気に広がる「冷えたエールの店」という噂。
サーヤは客席を見ていてまた気づく。
(みんな、埃っぽい道から来るんだから、まず気持ちよくさせなきゃね)
井戸の水を汲み、布を切り、桶に浸して絞る。
ほんのり温かい布。
「手、拭いてください」
差し出すと――
客、固まる。
「……なにこれ……天国?」
そこから笑いが生まれる。
会話が生まれる。
滞在時間が伸びる。
= 飲む量、増える。
「サーヤ。今の……いいな」
ハルトはぽつりと呟く。
サーヤはニッと笑う。
「日本の飲み屋文化、なめんなよ」
「ニホンってどこだ」
「内緒」
さらに、帳簿の横で炭筆を回しながら、サーヤは小さく唸っていた。
(お酒、料理、サービス……少しずつ良くなってる)
(でも、まだ なにかが足りない)
ガタン、と椅子を立つ。
何かに導かれるように、店の奥へ。
――そこは。
トイレ。
薄暗い。
床はところどころ黒ずんでいて、壁には年季の入った汚れ、角の方には……見なかったことにしたくなる何か。
サーヤは静かに扉を閉めた。
そして――大きく息を吸って、
「……よし、ここね」
決めた顔になる。
桶。
布。
灰汁水。
ハーブ水。
雑巾何枚も。
サーヤは袖を捲り上げる。
トイレが汚い店は、客の心が離れる。清潔は“安心”だもん。現代日本で染みついた感覚が、彼女の背中を押した。
床。
壁。
ドアの裏。
角。
便器の縁。
外側。
手を洗う桶も。
「バイ菌上等よ。どんと来なさい」
戦う女の顔だった。
最後にハーブで香りづけ。
ランタンの位置も変えて、少し明るくする。
――仕上げに、小さな草花をブーケにして壁にかける
「ふぅーーー……っ」
サーヤは腰に手を当て、息を吐く。
トイレは汚くて怖い場所から 安心して落ち着ける空間へ。
客の一人が、トイレから出てくる。
そして厨房に向かってぼそり。
「……なぁ、ハルト」
「なんだ」
「お前んとこ……トイレ、どうした?」
ハルトは思わず固まる。
(怒られる流れじゃないのか!?)
すると。
「めちゃくちゃ……清潔だったぞ」
もう一人の客も言う。
「俺も思った。なんか、ええ匂いした」
さらに。
「女房、連れて来れそうだな、この店」
「安心して飲める」
「ちゃんとした店だよな、ここ」
店が閉まりかけた頃。
ハルトはふと、トイレを覗き、固まる。
「……は?」
床、光っている。
臭く、ない。
壁、きれい。
静かに振り返る。
テーブルの陰で、ニヤニヤしてる娘。
「あーーー……お前か」
サーヤは肩をすくめる。
「家と食堂、清潔からでしょ」
ハルトは頭を掻きながら、
「……ありがとな」
ただ一言、それだけ。
サーヤは照れ隠しの笑顔で、
「まだまだ、やれることいっぱいあるからね!」




