表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
163/181

第十一章 scene10 縁談

ルカ、休みの日の午後。


本当は、朝から行きたかった。

目が覚めた瞬間から、考えていた。


(今日は、いるだろうか)

(もう、元気になっただろうか)


ここ数日、そればかりだった。


でも――

朝から、私服で。


それは、さすがに憚られた。


理由は、はっきりしている。

「常連」でも、「客」でもない立場で、

踏み込みすぎる気がした。


だから、午後。


理由をつけるなら、

「コーヒーが飲みたくなったから」

それで十分だ。



扉の前で、少しだけ呼吸を整える。


チリン。

鈴の音。


店内は、ほどほどに人がいた。

昼のピークを過ぎた、穏やかな時間。


そして――

いた。


カウンターの内側。

エプロン姿の、サーヤ。


その瞬間、胸の奥が、すっと軽くなる。


(……よかった)


顔色は戻っている。

動きも、もう普段と変わらない。


彼女は、常連客に囲まれていた。


「それ、新作?」

「レモンの形、かわいいね」


「でしょう?」

サーヤは、嬉しそうに笑っている。


その笑顔を見て、

なぜか、少しだけ胸が痛んだ。


(……愛されているんだな)


この店に。

この時間に。

ここに集う人たちに。


彼女は、中心にいる。

自然に。


守られている。

騒がしくなく、でも確かに。


ルカは、空いている席に腰を下ろす。

いつもの奥ではなく、今日は少し控えめな場所。


(邪魔しないほうがいい)


そう思ったから。



少しして。

サーヤが、注文を取りに来た。


その瞬間、目が合う。


ほんの一拍。

それから、彼女がふっと表情を和らげた。


「ルカさん」


名前を呼ばれるだけで、背筋が伸びる。

「こんにちは」


「こんにちは」

「今日は、お休みでしたっけ?」


「はい」


それだけの会話。


――のはずだった。


サーヤは、少しだけ声を落として言った。

「ご心配いただいたようで、ありがとうございました。」


胸が、強く鳴った。


「……いえ」

それ以上、何も言えなかった。


彼女は、深く掘り下げない。

礼を言って、それで終わり。


それが、サーヤらしい。


「いつものコーヒーで、よろしいですか?」


「……はい」


「少し軽めにしますね」


理由は、聞かない。

体調のことも、詮索しない。


それが、心地いい。



コーヒーが置かれる。


湯気。

レモンの香りが、ほんのり混じる。


ショーケースを見ると、

あのケーキが並んでいた。


レモンの形。

白いアイシング。


「……新作ですか?」


思わず、聞いていた。


「ええ」

「病み上がりの、復帰作です」


冗談めかして言う。


「……無理は、されていませんか」


口にしてから、少し後悔する。


でも、サーヤは笑った。

「大丈夫」

「みんなに止められましたから」


「……それなら」


それ以上、言えなかった。



サーヤは、次の客のところへ行く。


ルカは、コーヒーを一口飲む。


(……元気そうだ)


それだけで、今日は十分だった。


朝から来なくてよかった。

午後にして、正解だった。


彼女は、ここにいる。

自分の場所で。


その姿を、

こうして遠くからでも見られたなら。


ルカは、カップを両手で包みながら、

静かに息を吐いた。


(……また、来よう)




カフェを出ると、午後の光が街に傾いていた。


石畳は昼の熱を残していて、

歩くたびに、靴底から微かな温度が伝わってくる。


(……元気そうだったな)


声の調子。

動き。

笑ったときの目。


無理をしていない、と言えば嘘になるのかもしれない。でも、彼女はちゃんと戻ってきていた。


ルカは、歩きながら、ふと考える。


常連に囲まれたサーヤ。

当たり前のように声をかけられ、

当たり前のように応える。


守られている場所。


(……俺が、何かする余地なんて)


そう思った瞬間、

胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。


(いや)

(余地が欲しいなんて、思うほうがおかしい)


騎士だ。

仕事がある。

責任がある。


それ以上を望む立場じゃない。


なのに――

頭から離れない。


白いアイシング。

レモンの形。

「復帰作です」なんて言いながら笑う声。


(……まずいな)

自分で、自分に釘を刺す。



家に着くと、使用人が静かに告げた。


「旦那様がお待ちですよ」


(……?)

珍しい。


父は、用件があるとき以外、

息子を呼びつけたりしない。


ルカは、上着を預け、そのまま書斎へ向かった。



父の書斎。

窓から差す光は、もう夕方に近い色をしている。


父は、机に向かっていたが、

ルカが入ると、ゆっくり顔を上げた。


「座りなさい」

それだけ。


ルカは、背筋を伸ばして腰を下ろす。


一瞬の沈黙。

父は、書類を一枚、机の上に置いた。


「話がある」

声は、落ち着いている。

だが、軽くはない。


「縁談の話だ」


ルカは、瞬きをした。


(……ああ)


来るときは来る。わかっていた。


「相手は、東区の家系だ」

「年頃も釣り合っている」

「教養もあり、評判も悪くない」


淡々とした説明。


条件としては、申し分ないのだろう。


「……急ですね」


ルカの声は、自分でも驚くほど静かだった。


「お前も、もう若くはない」


父は、責めるようには言わない。

事実を述べるだけだ。


「騎士団でも、そろそろ立場が固まりつつある」

「今後のことを考えれば、自然な話だ」


自然。

その言葉が、胸に引っかかる。

自然、とは何だ。


(……今日の午後も、自然だった)


コーヒーを飲んで。

会話をして。

「ありがとう」と言われて。


でも、あれは――

“自然”では、いけないものなのか。


父は、ルカをじっと見ている。


「どうだ」


即答は、求めていない。

だが、逃げ道もない。


ルカは、少し考えてから言った。


「……少し」

「考える時間を、いただけますか」


父は、しばらく黙っていた。

やがて、短く頷く。


「いいだろう」

「だが、長くは待てん」


「……承知しました」



書斎を出ると、

胸の中が、妙にざわついていた。


縁談。

家。

責任。


それらは、ずっと自分の人生の延長線上にあったはずなのに。


今は、そこに――

ひとつ、別の光景が重なっている。


午後のカフェ。

レモンの香り。

何気ない「ありがとう」。


(……困ったな)


ルカは、夜の廊下を歩きながら、

小さく息を吐いた。


これは、

コーヒーのせいじゃない。


そして、

簡単に切り離せる気持ちでも、もうなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ