第十一章 scene10 縁談
ルカ、休みの日の午後。
本当は、朝から行きたかった。
目が覚めた瞬間から、考えていた。
(今日は、いるだろうか)
(もう、元気になっただろうか)
ここ数日、そればかりだった。
でも――
朝から、私服で。
それは、さすがに憚られた。
理由は、はっきりしている。
「常連」でも、「客」でもない立場で、
踏み込みすぎる気がした。
だから、午後。
理由をつけるなら、
「コーヒーが飲みたくなったから」
それで十分だ。
⸻
扉の前で、少しだけ呼吸を整える。
チリン。
鈴の音。
店内は、ほどほどに人がいた。
昼のピークを過ぎた、穏やかな時間。
そして――
いた。
カウンターの内側。
エプロン姿の、サーヤ。
その瞬間、胸の奥が、すっと軽くなる。
(……よかった)
顔色は戻っている。
動きも、もう普段と変わらない。
彼女は、常連客に囲まれていた。
「それ、新作?」
「レモンの形、かわいいね」
「でしょう?」
サーヤは、嬉しそうに笑っている。
その笑顔を見て、
なぜか、少しだけ胸が痛んだ。
(……愛されているんだな)
この店に。
この時間に。
ここに集う人たちに。
彼女は、中心にいる。
自然に。
守られている。
騒がしくなく、でも確かに。
ルカは、空いている席に腰を下ろす。
いつもの奥ではなく、今日は少し控えめな場所。
(邪魔しないほうがいい)
そう思ったから。
⸻
少しして。
サーヤが、注文を取りに来た。
その瞬間、目が合う。
ほんの一拍。
それから、彼女がふっと表情を和らげた。
「ルカさん」
名前を呼ばれるだけで、背筋が伸びる。
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日は、お休みでしたっけ?」
「はい」
それだけの会話。
――のはずだった。
サーヤは、少しだけ声を落として言った。
「ご心配いただいたようで、ありがとうございました。」
胸が、強く鳴った。
「……いえ」
それ以上、何も言えなかった。
彼女は、深く掘り下げない。
礼を言って、それで終わり。
それが、サーヤらしい。
「いつものコーヒーで、よろしいですか?」
「……はい」
「少し軽めにしますね」
理由は、聞かない。
体調のことも、詮索しない。
それが、心地いい。
⸻
コーヒーが置かれる。
湯気。
レモンの香りが、ほんのり混じる。
ショーケースを見ると、
あのケーキが並んでいた。
レモンの形。
白いアイシング。
「……新作ですか?」
思わず、聞いていた。
「ええ」
「病み上がりの、復帰作です」
冗談めかして言う。
「……無理は、されていませんか」
口にしてから、少し後悔する。
でも、サーヤは笑った。
「大丈夫」
「みんなに止められましたから」
「……それなら」
それ以上、言えなかった。
⸻
サーヤは、次の客のところへ行く。
ルカは、コーヒーを一口飲む。
(……元気そうだ)
それだけで、今日は十分だった。
朝から来なくてよかった。
午後にして、正解だった。
彼女は、ここにいる。
自分の場所で。
その姿を、
こうして遠くからでも見られたなら。
ルカは、カップを両手で包みながら、
静かに息を吐いた。
(……また、来よう)
カフェを出ると、午後の光が街に傾いていた。
石畳は昼の熱を残していて、
歩くたびに、靴底から微かな温度が伝わってくる。
(……元気そうだったな)
声の調子。
動き。
笑ったときの目。
無理をしていない、と言えば嘘になるのかもしれない。でも、彼女はちゃんと戻ってきていた。
ルカは、歩きながら、ふと考える。
常連に囲まれたサーヤ。
当たり前のように声をかけられ、
当たり前のように応える。
守られている場所。
(……俺が、何かする余地なんて)
そう思った瞬間、
胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。
(いや)
(余地が欲しいなんて、思うほうがおかしい)
騎士だ。
仕事がある。
責任がある。
それ以上を望む立場じゃない。
なのに――
頭から離れない。
白いアイシング。
レモンの形。
「復帰作です」なんて言いながら笑う声。
(……まずいな)
自分で、自分に釘を刺す。
⸻
家に着くと、使用人が静かに告げた。
「旦那様がお待ちですよ」
(……?)
珍しい。
父は、用件があるとき以外、
息子を呼びつけたりしない。
ルカは、上着を預け、そのまま書斎へ向かった。
⸻
父の書斎。
窓から差す光は、もう夕方に近い色をしている。
父は、机に向かっていたが、
ルカが入ると、ゆっくり顔を上げた。
「座りなさい」
それだけ。
ルカは、背筋を伸ばして腰を下ろす。
一瞬の沈黙。
父は、書類を一枚、机の上に置いた。
「話がある」
声は、落ち着いている。
だが、軽くはない。
「縁談の話だ」
ルカは、瞬きをした。
(……ああ)
来るときは来る。わかっていた。
「相手は、東区の家系だ」
「年頃も釣り合っている」
「教養もあり、評判も悪くない」
淡々とした説明。
条件としては、申し分ないのだろう。
「……急ですね」
ルカの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「お前も、もう若くはない」
父は、責めるようには言わない。
事実を述べるだけだ。
「騎士団でも、そろそろ立場が固まりつつある」
「今後のことを考えれば、自然な話だ」
自然。
その言葉が、胸に引っかかる。
自然、とは何だ。
(……今日の午後も、自然だった)
コーヒーを飲んで。
会話をして。
「ありがとう」と言われて。
でも、あれは――
“自然”では、いけないものなのか。
父は、ルカをじっと見ている。
「どうだ」
即答は、求めていない。
だが、逃げ道もない。
ルカは、少し考えてから言った。
「……少し」
「考える時間を、いただけますか」
父は、しばらく黙っていた。
やがて、短く頷く。
「いいだろう」
「だが、長くは待てん」
「……承知しました」
⸻
書斎を出ると、
胸の中が、妙にざわついていた。
縁談。
家。
責任。
それらは、ずっと自分の人生の延長線上にあったはずなのに。
今は、そこに――
ひとつ、別の光景が重なっている。
午後のカフェ。
レモンの香り。
何気ない「ありがとう」。
(……困ったな)
ルカは、夜の廊下を歩きながら、
小さく息を吐いた。
これは、
コーヒーのせいじゃない。
そして、
簡単に切り離せる気持ちでも、もうなかった。




