第十一章 scene9 レモンケーキ
布団の中は、少しだけ暑くて、少しだけ寒い。
頭がぼんやりして、天井の木目がゆらゆら揺れて見える。
「……」
ノックの音。
「入るぞ」
レオンの声と、続いて小さな足音。
「サーヤ!」
カイだった。
サーヤは、ゆっくり上体を起こす。
「……カイ?」
「はい、これ!」
差し出されたカップから、やさしい匂いが立ちのぼる。甘くて、少し酸っぱい、はちみつレモン。
カイが、胸を張る。
「ぼくが考えた!」
一瞬。
サーヤの目が、ぱちぱちと瞬いた。
それから。
「……わーん」
声が、ちょっと裏返った。
「ありがとう……」
「すっごく、うれしい……」
カイは、ほっとしたように笑う。
「よかった」
レオンが、腕を組んだまま言う。
「ゆっくり飲め」
サーヤは、両手でカップを包む。
「だいじょうぶ」
「すぐ、よくなるよ」
一口。
「あ……」
喉を通ると、じんわり温かい。
胸の奥まで、届く感じ。
「……おいしい」
そのまま、少し考え込んで。
「ねえ」
「わたし、思いついちゃった」
レオンが、嫌な予感の顔をする。
「……何をだ」
サーヤの目が、きらっと光る。
「レモンケーキ」
「……は?」
「絶対、おいしいよ」
「この感じ」
「ほら、ふわっとしてて、甘くて」
レオンは、ため息。
「今それ言うか」
でも、声は呆れ半分で、安心半分だった。
「元気になってからだ」
「今は寝ろ」
サーヤは、布団に潜り直しながら言う。
「うん」
レオン
「みんな心配してた」
「新作考えてたって聞いたら、安心するだろ」
「えへへ」
サーヤは、ちょっと照れた。
それから、レオンが、ふと思い出したように付け足す。
「ああ、そうだ」
「……?」
「例の騎士もな」
「心配してたぞ」
一瞬。
サーヤは、きょとんとする。
「……え?」
レオンは、わざと軽く言う。
「朝、やけに静かだったぞ」
サーヤは、なぜか胸の奥が、少しだけくすぐったくなった。
「……そうなんだ」
カップを、もう一度持ち上げる。
甘くて、やさしくて。
誰かの気遣いが、そのまま溶けている味。
(……早く、元気にならなきゃ)
レモンケーキのことと、
浮かんだ騎士の顔を、
一緒に頭の片隅に置きながら。
サーヤは、もう一口、
ハチミツレモンを飲んだ。
3日目の夜。
熱は、ようやく下がったようだ。
身体の奥に、まだ名残のような重さが残っている。
「……3日か」
サーヤは、天井を見ながらつぶやいた。
汗をかくほどではない。
でも、立ち上がると、まだ少しふらつく。
レオンは、腕を組んで言った。
「一週間は休めよ」
「えー……」
「またぶり返したら意味がないぞ」
「わかってるけど……」
サーヤは、布団の中で、もぞもぞする。
頭は、もう元気なのだ。
身体だけが、追いついていない。
4日目。
熱はない。
食欲も、戻ってきた。
サーヤは、布団の上で起き上がり、窓の外を見る。
朝の光。
通りの気配。
遠くの市場の音。
(……うずうずする)
「まだダメだ」
レオンは、即答だった。
「……わかってる」
でも、夜にはもう我慢できなかった。
「ねえ」
「朝だけでいいから」
「火、入れるだけ」
レオンは、しばらく黙ってサーヤを見た。
顔色。
目。
呼吸。
「……条件付きだ」
「やった」
「しんどかったらちゃんと休めよ」
「明日は仕込みだけ」
サーヤは、子どもみたいに笑った。
「うん!」
⸻
5日目の朝。
久しぶりの厨房は少し、よそよそしかった。
でも、手を洗って、
エプロンをつけると、
不思議と身体が思い出す。
(ああ……)
この感覚。
レモン。
はちみつ。
バター。
卵。
台の上に並べるだけで、気持ちが落ち着く。
カイが、そっとのぞく。
「……サーヤ、大丈夫?」
「うん」
「今日は、焼かないかもだけどね」
「え?」
サーヤは、にこっとする。
「試作」
レモンの皮を削る。
香りが、ふわっと立ち上る。
「……これだ」
熱のあとで、感覚が少し敏感になっている。
酸味が、いつもより鮮やかだ。
(重すぎない)
(甘すぎない)
(朝でも、午後でもいけるやつ)
ボウルを混ぜながら、サーヤは言った。
「ね、カイ」
「このレモンケーキ」
「はい」
「元気なときに作るより」
「今のほうが、いい気がする」
カイは、よくわからないまま頷く。
レオンは、少し離れたところで、それを見ていた。
無理はしていない。
でも、完全でもない。
それが、わかる。
「今日はここまでだ」
「焼くのは明日」
「……はーい」
サーヤは、名残惜しそうに道具を片づけた。
でも、顔は満足そうだった。
(やっぱりここがいい)
レモンの香りが残る厨房で、
サーヤは、深く息を吸った。
「……ただいま」
翌朝。
朝の光が、作業台の上に差し込んでいる。
サーヤは、ゆっくりと型を並べた。
それは、丸でも四角でもない。
ころんとした、レモンの形。
「……やっぱり、これよね」
独り言みたいに呟いて、
バターを塗り、粉をはたく。
生地を流し込むと、
レモンの輪郭が、きれいに浮かんだ。
オーブンの扉が閉まる。
静かな音。
焼けてくるにつれて、
甘さと、ほんのりした酸味が混じった香りが、
店の奥まで広がっていく。
「……あぁ」
「元気なときの匂いだ」
焼き上がったケーキを取り出し、
少しだけ冷ます。
表面は、ふっくら。
指で軽く押すと、すぐに戻る。
サーヤは、小さなボウルに粉糖を入れた。
そこに、レモンを半分。
きゅっと絞る。
「……ちょっと酸っぱいかな」
スプーンで混ぜると、
白い液体が、なめらかにとろりと落ちる。
焼き色のついたレモン型のケーキを並べて、
その上から、アイシングを細く垂らした。
白い線が、レモンの輪郭に沿って流れ、
自然に、少しだけ溜まる。
つやっとして、
ゆっくり、静かに固まっていく。
サーヤは、しばらくそれを見つめていた。
「……うん」
「美味しそう」
甘さの膜の下に、
ちゃんとレモンがいる。
それだけで、十分だった。
朝の作業場は、まだ少し静かで、
いつもの時間。でも、空気が違う。
オーブンの前に立つサーヤの背中を、
カイは少し離れたところから見ていた。
(……戻ってきた)
それが、いちばん最初に思ったことだった。
顔色はもう大丈夫そうだけど、
動きは、いつもより慎重だ。
オーブンが鳴る。
サーヤが、ミトンをはめて扉を開けた。
ふわっと、甘酸っぱい匂いが広がる。
「できたよ」
レモンの形をしたケーキ。
上に、白いアイシングをかけた。
つやっとしてて、
なんだか、元気そうな見た目だった。
「……かわいい」
思わず、声が出た。
サーヤは、ちょっと照れたみたいに笑う。
「でしょ」
「元気出る形にした」
レオンが、腕を組んだまま覗き込む。
「ほう」
「熱下がった途端にこれか」
「だって」
サーヤは、悪びれもせず言う。
「思いついちゃったんだもん」
カイは、少しだけ胸が軽くなる。
(……大したことなくてよかった)
サーヤが、皿に二つのせて差し出した。
「はい、ちょっとまだ冷めてないけど」
「お休みさせてもらって、ありがとう」
その言い方が、「ごめん」じゃなかったのが、嬉しかった。
カイは、慌てて首を振る。
「全然!むしろ……」
言いかけて、止める。
レオンが、先に言った。
「心配はしたけどな」
「まぁ、顔見りゃわかる」
フォークで一口。
少し間を置いて。
「……うん」
「ちゃんとレモンだな」
サーヤが、ほっとした顔をする。
カイも、続けて一口食べた。
甘い。
でも、あとからちゃんと酸っぱい。
(……元気になる味だ)
「ね」
サーヤが言う。
「あのはちみつレモンから、思いついたの」
カイは、思わず笑った。
「あれから?」
「そうそう」
「いいヒントくれた」
レオンが、ちらっとカイを見る。
「功労者だな」
カイは、少しだけ胸を張った。
サーヤは、エプロンの紐を結び直す。
「無理しないって約束したから」
「今日は、ゆっくりやるよ」
「それでいい」
レオンが言う。
カイは、もう一度ケーキを見る。
いつも通り、それが、何よりだった。
そして、きっと。
このレモンケーキを見たら、
あの騎士も――
「……あ」
思わず、口に出た。
サーヤが首を傾げる。
「なに?」
「いえ」
「なんでもないです」
(……きっと、あの人、心配してたよな)
そう思って、
カイはもう一口、ケーキを食べた。




